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酔生夢死の世の中を渡るには、それなりの覚悟と知恵がいる。そんな覚悟も知恵もなく歩んできた人生の好きなことを、好きなように書き散らしました。

父母未生以前本来の面目 [エッセー]

夏目漱石は小説「門」のなかで、主人公宗助が鎌倉の寺へ参禅したことを書いた。
「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向って云った。「父母未生以前本来の面目は何だか、それを一つ考えてみたら善かろう」

父母未生以前とは父と母が生まれる前のことである。父と母が結婚して、母親が妊娠しなければ自分という存在は存在しないのである。そのように、父と母が出会うまえの事故とは何かを考えろというのである。
しかし、「無」ではない。無から有は生じないからだ。父の体内と母の体内に於いて、私という存在の種子はある事にはあったのである。ただ、それが組み合わさらないと生じないので、しかるべき時期にしかるべくひとつになり、私という人間が出来た。だから「無」ではない。
「無」ではないが「有」でない。それなら、「無記」とでもいうのだろうか。

有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け 一休宗純

名前の一休はここから取ったとも。

有漏路とは煩悩の多いもののいる世界。つまり、この世のこと。いわゆる娑婆である。迷いの世界に属することである。有漏の身というと、無漏の身に対する言葉で、迷っていることをいう。
そうだとすれば、「無」にも非ず、「有」にも非ずという状態は、迷いの世界でもなく、悟りの世界でもないということなのだろうか。

ということで、父母未生以前の本来の面目とは、迷いでも悟りでもない。それが私なりに辿り着いた答であるが、もとよりそれが正解なのか不正解なのかは、私には分からない。

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へつらい、おもねり、おべっか それとも出世なし [エッセー]

 へつらいて 楽しきよりも へつらわで 貧しき身こそ 心安けれ

 会社でも上司におべんちゃらを言ったり、ごますりをしたりしても、それは長い人生の中では非常に短い間のことだ。人に阿って出世しても、引き上げてくれた上司が失脚すれば、自分も失脚する。そんな不安定な地位のために人に阿るのは、馬鹿げている。

 私は本当にそう思っていたし、いかなる派閥にも与しなかった。どんな上司にも阿らなかった。
 だから出世もせず干された。しかし、今では、それはそれで良かったと思っている。

 まあ、出世したいとと考える人は、おべっかも言わなければならないし、阿りも必要だ。それはそれで良い。

 屈辱を先に味わうか、それとも後で屈辱を感じるか。違いはそれくらいだろう。
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持ちつ持たれつ [エッセー]

世の中は 持ちつ持たれつ 立つ身なり 人という字を 見るにつけても

人は一人では生きられないのはいうまでもない。商売とか援助、支援などの構図でも持ちつ持たれつという関係は見て取れる。ボランティア支援などを見ると、ただボランティアが片務的に援助しているだけではないかと思いがちだが、そんなことはないのである。ボランティアをする人は、自分の役割が果たせるという喜びがあり、それは支援される人がいなければ生まれない効果なのである。
だから、人は持ちつ持たれつなのである。それが理解出来ない人は、よほどの阿呆であろう。そういう人とは係わらないのが賢明だ。

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無礼 [エッセー]

 無礼する 人は人にて 人ならず 人と思いて 咎めばしすな

 人に対して無礼を働く人は、人でなしと思えば良いだけで、一々無礼を咎めることはしなくても良い。確かに、日本の周辺の死那狂惨党や南北朝鮮は無礼ばかり働いているので、彼らは人間ではないので一々腹を立てないでいよう。

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鈴木真砂女 [エッセー]

鈴木真砂女

人宥す齢を涼しと思ひけり

人間は業が深い。業が深いのは、自分が物事の判断の基準になっているからだ。業が深い分だけ、他人に厳しくなるのは当然である。
せっかちな人間は、何もかもさっさと前に進めないと気が済まないが、のんびりした人は、そのせっかちな人がすることを見て、何をそんなに慌てふためいて事を運ぶのだと思う。せっかちな人は、そののんびりした人を見て、こいつはのろまな奴だ、どんくさいなと思う。
血気盛んな中年の頃までは、しかし、そんなことには気が付かない。大抵のことは支障なくほとんどそれで済ませられるのだ。なぜなら、心の中でそう思っていても、口に出さない限りは、問題にならないのだ。その業の深さを口に出したり、態度に出したりしてしまったために、大喧嘩したり、決別したりする事は、もちろんあり得る。
やがて、どんな人でも老いてゆく。すると、不思議なもので大喧嘩した相手や決別した人のことを懐かしんでみたり、自分の生き方を反省したりすることがある。
そういうときに最も勇気がいるのが、この「宥す」ということである。これが出来たら人間としては、かなり上位の部類に入れるだろう。それほどに難しいのだ。

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源実朝の和歌 [現代詩]



 萩の花くれぐれまでもありつるが月いでて見るになきがはかなさ

 源実朝は、政治家としては三流以下だろうが歌人としては一流であり大変評価が高い。病弱であり、霊感も強かったようだ。

 私は、源実朝という名前を聞くと必ず思い出す事がある。それは、渡宋計画のことである。
 1216年(建保4年)6月15日、東大寺大仏の再建に尽力した宋の僧陳和卿が三代将軍源実朝に対面して、「前世で、あなたは宋の医王山の長老で、私はその門弟だった」と語ったそうである。
かつて実朝の夢の中に現れた高僧も同じことを言っていたのだという。
 そんな事から、実朝は医王山参詣を思い立ち、11月24日、陳和卿に宋へ渡るための船の建造を命じた。しかし、翌年4月、船は完成したものの、進水に失敗し、砂浜で朽ち果てたという。
 将軍に宋に渡られたら困ってしまうと考えた幕府の重臣達が、船に細工をして動かないように細工をした可能性もある。陳和卿がとんでもない詐欺師だった可能性もある。

 実朝は、医王山に行きたかっただけだろうか。北条氏を滅ぼさないと自分たちが滅ぼされると焦燥感を持った畠山重忠や和田義盛たちが、次々に滅ぼされていく。そういう中で、実朝は次に滅ぼされるのは自分だろうと思っていたことは想像に難くない。何しろ、自分の兄である第二代将軍頼家でさえ、自ら墓穴を掘った。
 だから、実朝はきっと逃げたかったのだ。何からか。母政子と北条一族の桎梏から。現実から。三代将軍の地位から。鎌倉の地を逃れたい。海の外に逃げたいと強烈に思ったのだろう。

 そのような実朝の現実の人生の儚さと、この歌が象徴する萩の花の儚さが奇妙に折り重なって、私の心の奥底に下りていく。

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人生の重み [エッセー]

 重くともわが荷は人に譲るまじ 担うにつれて荷は軽くなる

 生きることの困難さをいまさら取り立てて説明する必要はないだろう。この世に生を受けて、両親の元で育ててもらった後は、自力で生きていくのが基本である。野生の動物などは、一人前になったら、母は子を突き放す。そうしないと、子が生きていけないことを本能が知っているからだ。「本能で」知っているのではない。本能の声にしか従わないからだ。

 しかし、人間は頭脳があるだけに、つい心の動きのほうを重要視する。そうして、いくつもの後悔と懺悔を繰り返す。なんとも愚かなのは、野生動物ではなく人間のほうである。

 重い荷物を背負いながら、しかも、その荷物を増やながら生きているのが、世間の普通の人々だ。金を、地位を、名誉を、さらにもっともっとと求めてやまない。

 そんな荷物はどんどん放り捨てて生きようとした『方丈記』、あるいは『徒然草』の作者のようにはなかなかなれないものだ。

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つもり違い四十箇条 [エッセー]

<つもり違い四十箇条>

高いつもりで低いのが教養
低いつもりで高いのが気位
深いつもりで浅いのが知恵
浅いつもりで深いのが欲望
厚いつもりで薄いのが人情
薄いつもりで厚いのが面皮
強いつもりで弱いのが根性
弱いつもりで強いのが自我
多いつもりで少ないのが分別
少ないつもりで多いのが無駄

広いつもりで狭いのが見識
狭いつもりで広いのが人脈
大きいつもりで小さいのが目標
小さいつもりで大きいのが損失
明るいつもりで暗いのが指針
暗いつもりで明るいのが不正
重いつもりで軽いのが責任
軽いつもりで重いのが権限
早いつもりで遅いのが報告
遅いつもりで早いのが噂話

長いつもりで短いのが人生
短いつもりで長いのが青春
遠いつもりで近いのが因縁
近いつもりで遠いのが血縁
固いつもりで軟らかいのが結束
軟らかいつもりで固いのが思考
熱いつもりで冷たいのが人気
冷たいつもりで熱いのが恋心
辛いつもりで甘いのが自評
甘いつもりで辛いのが人評

速いつもりで遅いのが連絡
遅いつもりで早いのが時間
良いつもりで悪いのが世話
悪いつもりで良いのが友誼
安いつもりで高いのが奉仕
高いつもりで安いのが給与
鋭いつもりで鈍いのが注意
鈍いつもりで鋭いのが中傷
苦しいつもりで楽しいのが仕事
楽しいつもりで苦しいのが生活


はじめの10箇条は東京・奥多摩の高尾山には真言宗智山派の大本山である「薬王院」があり、そこに「つもり違い十ヶ条」という看板があるそうだ。

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白隠慧鶴 [エッセー]

白隠慧鶴

若い衆や死ぬがいやなら今死にや 一たび死ねばもう死なぬぞや 

この人は500年に一度しか出ない大器とまで言われた人であり、非常に有名なので説明は不要だろう。
禅僧の言葉は、我々のような一般人には理解しがたい。だから、この辞世で白隠が何を言いたかったのかは、よく分からない。
ただ、自分に執着するなとか、こだわるな、拘泥するなということを言いたかったのではないかと思う。
あるいは、何かを成し遂げようと思うのであれば、死んだ気になってやらないと、成し遂げられないぞ。楽をしようとか、手抜きをしようとか思ったら、成し遂げられないぞ、と言いたかったのかもしれない。

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遠星北斗の辞世 [エッセー]

遠星北斗

死ね死ねと云はるるまで生きる人あるに 生きよと云はるる俺は悲しい 

遠星北斗という人については、まるで知識がない。この辞世の考察の元になっている『辞世選任一首』 (荻生待也編著)によれば、遠星という人はアイヌ民族解放家にして歌人であるということだ。
 
仮にこの歌を生の最期の段階で詠んだ辞世だとすると、生の最期の段階にまで「生きよ」と云われるのは嬉しいことなのか、それとも悲しいことなのかという疑問が頭を過ぎったので、この歌を取り上げてみた。
アイヌ民族解放家という特殊な立場故なのか、それとも人望の故の羅ぞみとして「生きよ」と励まされたのか。病気か何かで本人は「もう十分に生きた」と思っているのに、ただ「生きよ」と励まされたことに嫌気がさしたのか。

死んで行くにしろ、生きて行くにしても、人の生は苦しみと哀しみに満ちている。だからこそ、今ここでの一時を笑って明るく過ごす必要があるのではないか。哀しみを抱えているのに哀しい顔をしたところで、どうにもならないのだ。それにしても、この生きることの哀しみとの根源は何なのであろう。私には永遠に溶けない謎である。

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大石良雄の辞世 [エッセー]

大石良雄

あら楽し思ひは晴るる観は捨つる うき世の月にかかる雲なし 

昼行灯と称された大石良雄は言わずと知れた忠臣蔵で有名な赤穂浪士のリーダーである。
この人は、日本一のリーダーであると断言してもよい。
まず、徳川幕府の不条理な裁きに対して主の仇討ちという真っ当で、しかも武士として果たさなければならないことを遂行した。そのことは幕府としは沈黙するしかないという方法で。
次に、主の仇をきちんと討つという目的を果たした。
この二つだけでも大したリーダーシップであるが、強硬派などの考えの違う人たちも立派にまとめて目的を遂行したことで、最高クラスのリーダーであると言える。
このような人生であれば、何も思い煩うことなくこの世に決別することができるのだろう。

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坂本龍馬 [エッセー]



世の中の人はなにとも言はば言へ我がなすことは我のみぞ知る 

歴史上の人物には様々な人が居る。善人も悪人もいるし、どうしてこのような人間が出現したのかと言いたくなるような人もいる。坂本龍馬という人は、歴史が必要とした時期に必要な期間だけ生かされたという印象が強い人だ。強烈な使命と使命を果たした後の潔い散り方故に、いつまでも大勢のファンがいる。
龍馬の死は決して横死などではなく、必然だったのではないかと思う。天がいつまでも龍馬ファンが彼の死を惜しむように、一番よいところで彼の命を召し上げたのだと思う。短命故に惜しまれる生と長命故に嫌がられる生と、どちらがよいかなどというのは人間の勝手な思い込みだ。龍馬のごとき偉人にあらざる我ら凡人は、静かに順番を待つしかない。

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在原業平 [エッセー]


つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを 在原業平
稀代代のプレイボーイも年を取り死なねばならない時が来る。無論、いつかそういう日が来るのと知ってはいたのだ。ただ、その日がこんなに早く来るとは思っていなかったという嘆きである。
この歌そのものは陳腐でつまらないし、内容も格別のものでもない。しかし、多くの人たちの嘆きを代弁していると考えれば、あながち愚作とばかりは言えない。
徒然草百五十五段に言う。
「死期は序でを待たず。死は、まえよりしも来たらず、かねて後ろに迫れり」
我々凡人はこの無常ということをよくよくかみしめて、毎日を暮らさねばならない。なんの準備もないまま死の旅に出るのと、周到な準備をして死出の旅に発つのでは、大きな違いが出る。いざ、というときになって慌てても、何の準備もできないのだ。
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中城ふみ子 [エッセー]

中城ふみ子

灯を消してしのびやかに隣に来るものを快楽(けらく)のごとくに今は狎らしつ 

最近の医療の進歩により、乳癌も早期発見することで克服できるようになった。しかし、この歌人が病に倒れた当時の医療技術では、どうにもならなかった。乳房喪失という女性にとっては衝撃的な苦痛に見舞われたのだ。その衝撃はどれほどのものだったのか、私には想像も付かない。

灯を消したときに、しのびやかに隣に来るものとは、何だったのだろうか。作者ではない我々は、いろいろと憶測するしかないのだが、おそらくは「死の恐怖」ではなかったのか。自分の肉体が消滅してしまうことも恐いが、生きている人の人生は続くのだ。そこでは、かつて自分が愛した人たちが生きているのに、自分は完璧に疎外されているのである。やがて、愛していた人たちの中から自分の記憶も薄れていく。
そのような恐ろしい状態におびえているよりも、むしろ狎らしたほうがよいというように考えたのだと思う。だとすれば、これは戦いの宣言でもあるのだ。
豊かな才能も輝かしい過去も全てを奪っていく「死」というものをどうとらえるのか。そこから、老いの生き方を考えるのは重要なことである。


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忌めば忌む [エッセー]

 忌めば忌む忌まねば忌まぬ 忌むという文字は己が心なりけり

 己という文字に心を足すと、忌という文字ができる。刻苦勉励という四字熟語があるが、なぜか私はながいこと「克己勉励」だと覚えていた。己に打ち勝つことが大事だと思い込んでいたのだ。
 それはさておき、他人に何かを忠告されたり指摘されたりすると、己の心の中で反発心が起きる。だから、忠告してくれたり、指摘してくれたりした人に感謝するのではなく、「忌む」という行為に走ってしまうのだ。忠告や指摘を素直に受け止めれば、相手は気づきという恩恵をもたらしてくれる人だが、自分の心の中で己だけが大切というバイアスがかかると、相手は忌むべき人となる。
 心という魔物は、いつでもあなたの隙をつこうとして待ち構えているのだ。

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