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酔生夢死の世の中を渡るには、それなりの覚悟と知恵がいる。そんな覚悟も知恵もなく歩んできた人生の好きなことを、好きなように書き散らしました。

理想の政治家 [エッセー]



 偉大な政治家についてあれこれ考えると、私は中国の管仲や晏嬰を想起する。日本では聖徳太子や北条泰時を思い浮かべる。

 しかし、耶律楚材というモンゴル帝国の政治家を知る人は多くないと思うが、いかがだろう。出自は契丹族である。ちなみに、契丹は英語のキャセイ、ロシア語のキタイの元になっている。

 モンゴル帝国は略奪の歴史であれだけの大国になった。そんなモンゴル帝国で、戦争に強いわけでもなく、英雄でもない彼が非常に高く評価され、チンギス・ハーンは彼を重用するように後継者に言い渡した。これは奇妙なことだが、希代の英雄は、モンゴルの弱点をしっかり認識していたのだ。

 彼の名言にこんな言葉がある。
 興一利不若除一害、生一事不若減一事
 一利を興すは一害を除くにしかず。一事を生(ふ)やすは一事をへらすにしかず

 政治家の仕事は、小さな利を興すことではなく、小さな害を取り除くことだ。小さな害を取り除くとは、既得権益にしがみつく連中を取り除き、国民の生活を少しでも楽にすることである。しかも、彼の説くところは、会社にも非営利団体にも適用できる。

 今の日本に必要なのは、まさに一害をすこしずつ取り除くことだが、国会議員数の削減、公務員給与、天下りによるコスト増、原子力村の圧力、米国の過剰なまでの軍事問題介入、TPP、郵政事業、少子高齢化などどれをとっても、思考停止の状態である。現代の耶律楚材はいなのだと諦めるしかないのが実状のようだ。
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喜食満麺その9 [エッセー]


 
 シリーズの最後は鍋の話にしたい。我が家では冬の間は夕食はたいていお鍋だ。それは、今後もずっと変わらないだろう。

 鍋料理は味付けも具材も変化させ続けられるので飽きが来ないのだ。ちゃんこ鍋、水炊き風、もつ鍋、海鮮鍋、トマト鍋、キムチ鍋、水餃子鍋という風に変化させれば手軽にできる。なによりも、材料を刻むだけですむ。

 そして、最後のお楽しみは、締めである。たとえば、トマト鍋の時にはご飯を入れてチーズを足せば即席のリゾットになる。水餃子の締めは中華麺を入れる。

 私の一番のお気に入りは、和風の海鮮鍋の後のおじやだ。海鮮から出た美味で滋養に富んだダシをご飯が全部吸い取っていて、大変美味しく食べられる。

 残りのあまり長くない人生を過ごすには、この海鮮鍋のように、美味しくて滋養に富んだダシを与えてくれる人達とお付き合いしたいものだ。義理のお付き合いは最低限に絞っているし、会社のOB会などには行かない。利害関係で結びついた付き合いは、もうたくさんだから。

 あるサイトでは、たくさんの方と知り合いになった。直接会って顔を見知っている人もいれば、顔さえ知らない人もいる。その中には、様々なダシを与えてくれる人もいるし、そうではない人もいる。人はそれぞれだから、そのままでよいが、私にとって大切な人はやはりダシを与えてくれる人だ。

 そのダシはちょっぴりで効く場合もあるし、後からじわりと効くこともある。やはり、人生というのは長いようで短いし、浅いようで深いものなのだと思う。
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食満麺その8 [エッセー]


 
 先日の日記はイタリアの諺を基にして文化の違いや価値観のことについて考えた。今日は日本国内での違いについ考えてみたい。

 ごく大雑把な話をすると、東と西の食文化の違いは、糸魚川―静岡構造線(フォッサマグナの西辺)あたりに顕れる。

 天麩羅(九州では薩摩揚げのことも天麩羅というが、ここでは薩摩揚げは含まない本来の天麩羅のみ)にソースをかけ る文化というのがある。この食べ方は、和歌山では主流はだそうだ。関東ではどういうわけか、埼玉が天麩羅補ソースで食べる割合が比較的多いそうだ。

 また、関東以北では「お汁粉」と呼ぶものを「ぜんざい」と呼ぶのは静岡以西である。
 さらに、肉と言えば関東では豚肉をまず連想するのに対して、関西では牛肉を連想するという。中華まん(肉まん)のことを「豚まん」と呼ぶのは関西以西であろう。関東では「肉まん」と呼ぶ。つまくり、関東では肉=豚という構造であり、関西以西では肉≠豚なので、わざわざ「豚」まんと呼ぶわけだ。

 このように、糸魚川―静岡構造線というのは、日本の食文化の大きな分け目になっている。日本列島の成り立ちや、縄文文化と弥生文化のせめぎ合い、あるいは織田、豊臣、徳川の三氏が愛知あたりから輩出したことなどとも関係があるのだろうか。

 いずれにしても、この小さな島国の食文化だけを見ても、様々な違いがある。

 ところで、友達には江戸っ子もいるけれど、いわゆる江戸っ子の態度というのは非寛容なので、私はなじめない。

 いわく、「我慢してでも熱い風呂に入る」、「蕎麦つゆは先の方に少しだけ付けて食べる」などなどいろいろ言い立てて、それができなけりゃ江戸っ子じゃないという態度だからだ。
 まあ、私は江戸っ子じゃないから、「おめえは江戸っ子じゃねえ」と言われても痛くもかゆくもないが。

 他者に対して寛容になれば、苛立つこともない。自分の価値観は自分のものだし、他者の価値観は他者のものだと、割り切ってしまうことが、よりよい生き方ができる。
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喜食満麺その7 [エッセー]


 
 中国、韓国および東南アジア諸国でもお米は非常に重要な地位を占める食料である。日本のお米は粘り気があって、それがお米を止められない魔力のひとつだ。

 欧州ではお米は野菜として食べるが、イタリアやスペインなどではリゾットやパエリアなどの形でよく食べられていることは周知の事実である。

 つまり、洋の東西を問わず美味しいものは美味しいのだし、自分たちが美味しいと思う素材を、自分たちの調理法に併せて調理するという、ごく単純な事実だけがある。

 片方はオリーブ・オイルやチーズと併せて煮たり、焼いたりする。もう片方は、何も加えずに蒸す。場合によっては様々な具材と一緒に煮る。そうすることで、自分たちの舌になじんだ食べ物ができる。

 さて、イタリアにはこんな諺がある。
「米は水の中に生まれ、ワインの中に死ぬ」
II riso nasce nell’acqua e muore nel vino.

 なんとも素晴らしい表現ではないか。リゾットなどを思えば、たしかにこの諺のとおりだ。タイでは、竹筒にお米を入れて、こにココナツミルクを入れて焼くという調理法もある。
 そして、日本の米は水の中に生まれ、水の中に死ぬのである。主食として食べる場合もそうだし、お茶漬けにしてもそうだ。私の大好きなおじやにしてもそうだ。淡泊であっさりとしたものを好む日本人に相応しい。

 それぞれの民族の長い伝統が、こういう違いを生み出すわけで、その違いを大きなもとと捉えるのか、あるいは小さなものと捉えるのかによって、世界観は変わる。

グローバル化が避けられない今日、お互いの文化の違いを大きなものと捉えずに、小さな差異だと捉える考えがあれば、世界の国々や民族は、ずっと仲良く暮らせるはずだ。

 自分たちの価値観だけが唯一正しいものだという考え方に囚われていては、生きにくい時代に突入しつつある。それぞれの価値観を尊重しながら、相手の価値観を非難したり、おかしいと考えないようにすれば、窮屈な生き方に制限されずに生きられる。
 今日はイタリア料理でも食べようか。
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喜食満麺その6 [エッセー]


 
 子どもの頃は食べ物の好き嫌いが激しくて、ほとんどの野菜が嫌いだった。
 気に入ったおかずがない時は、だけをご飯にかけて食べる時もあったぐらいの偏食児童だった。
 今では何でも食べる爺さんになった。
 特に夏野菜は大好きだ。

 レストランなど家の外で食事をする時、一緒にご飯を食べたくない人ようながいる。
 それは、食べ物を食べるときに、くちゃくちゃいわせる人だ。それから、やたらとげっぷをする人。
 さらに、汁物を食べるときに、ずるずると大きな音を立てる人。(ただし、ラーメンや蕎麦などのようにすすり込む食べ物は別)
 自宅の家の中ならともかく、大勢の人がいるところでは少しは慎んだ態度を取らなければいけない。
 これは、価値観の問題ではなく、周囲の人を少しでも不愉快にしないエチケットの問題だからだ。
 
 しかし、家の中では個人の価値観に従って、好きにすればよい。寛いでご飯を食べられるのは家の中だけだから。

 ここ10年ほどは朝食を食べない習慣になった。以前はきちんと食べていたが。朝はもっぱら水分を取り、排泄に努める。
 朝ご飯に付き物の味噌汁をご飯にぶっかけて、いわゆる「猫まんま」にして食べるのが大好きだった。
 当然女房は顔をしかめた。
 あっちは、「お行儀の悪い食べ方」として、この「猫まんま」を嫌うのだった。
 しかし、自宅で寛いで食べる時ぐらいは、自分の価値観を発揮して何が悪いかという態度で、女房の視線を無視したものだ。
「猫まんま」にもいろいろあるようで、このほかにも鰹節をのっけて醤油を垂らすというのも大好きである。

 公共の場でエチケットに反するのはよくないが、自宅で食べる時ぐらいは自分の価値観を発揮して、好きにすればよいというのが私の考えだ。連れ合いは、ものを食べるときは、行儀良くたべるべきだという考えた方である。
 どちらであっても、世間を揺るがすようなことではないので、全く構わない。
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喜食満麺その5 [エッセー]


 
 水はすべての生き物にとって最も大切な要素であるることは言うを待たない。

 そして、水は温度条件により、液体、固体、気体と三つの相を取る不思議な物体だ。

 ヒトの場合、赤ちゃんが生まれてくる時は80%程度の水分であるが、死んで行く時は50%程度の水分保有率だそうだ。つまり、ヒトは、絹ごし豆腐として生まれ、高野豆腐になって死んで行くのだ。

 そんなにも大切な水だが、私達は水資源を大切にしていない。日本の水道は、蛇口からそのまま水を飲んでも問題がないほど整備されている。他の国で蛇口からそらまま水を飲むことは考えられない。雑菌や微生物の処理が行き届かないし、水の硬度が高過ぎて飲用に適さないという問題があるのだ。

 上善如水というお酒がある。限りなく水に近いと行ってもいいようなきれいですっきりした味わいのある、新潟の銘酒だ。
 
 この言葉は老子の言葉が元になっている。

 第一に水は方円の器に随い、天地間に水なくして存在するものはない。

 第二に水は低い方へ低い方へと流れる。

 第三に低いところに水が溜るから自分も大きくなる。

 ヒトは、しかし、水のような生き方はできない。いつも自分というものがあって、自分にとって有利な方向に向かうように、としか考えないからだ。しかも、自分にだけ有利になるようなことはあり得ないし、不可能だと分かっているのに、なんとか自分だけは有利になりたいとい、誠に愚かな生き物である。

 液体にも気体にもなれないヒトという生き物は、そういう生き方しかできないのだと自覚して生きれば、なんとか自分さえよければいい、という生き方から少しだけ抜け出ることができる。

 高野豆腐になりつつある私は、精神だけでも水のようにさらさらと流れていきたいと思う。流れていれば濁りはしない。流れが止まったり、溜まったりすると、とたんに濁り始める。それは、お金が貯まるととたんに傲慢になる人間を見ていればよく分かる。
                          
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喜食満麺その4 [エッセー]


 
 麺類は人類を救う。私は、麺食い人間としてそのように信じている。麺類の特質は次のとおりだ。

 まず、麺類は様々な麺がある。うどん、ラーメン、チャンポン-、蕎麦、パスタ、韓国の冷麺、中央アジアのラグマン、ベトナムのフォーなどなど。あ、ラグマンというのはうどんのようなもので、トマトベースのスープに羊肉が入ってるらしい。

 次に様々な形状、直径、の組み合わせによって、固い麺くて細い麺とか太くて柔らかい麺などいろいろな麺ができるので、食感の違いが楽しめる。

 それから、麺類には様々な具材を合わせることができる。

 そして、それぞれの麺にあったスープ、つけ汁、出汁のバリエーションがある。

また、ラーメンに代表されるように、それ一食でフルコースになりうる。スープ、前 菜、メイン、そしてお腹を満たす澱粉質。

 麺は長寿の象徴でもある。しかし、私は長く生きたいとは思わない。長生きするよりも濃密に楽しく生きたい。エンディング・ノートにも、治癒する病気なら治療をして欲しいが、単なる延命治療ならやめてむもらいたいと明記している。人間がチューブでつながれてスパゲッティ状態になるのは拒否したい。医師に頼んで上手に麻薬を使ってもらい、痛みのない死を迎えたいと思っている。(末期に使う痛み止めは麻薬である)

 今の日本人は「健康」という妄想にとりつかれていて、少しでも体調が悪いと病院に駆け込むようだが、生き物だから体調不良は時々あるのが当然だ。やたらと長生きしてどうするつもりなのか。しかし、長寿は願わなくても、美味しい麺類を食べるのは喜びだ。

 おおざっぱに言うと、関西はうどん圏であり、関東以北は蕎麦圏である。しかし、讃岐うどんと博多うどんでは麺のコシが違う。また、スープやつゆとの麺の組み合わせも大切だ。蕎麦つゆでうどんを食べても美味しくないし、関西のうどんのつゆでざる蕎麦を食べても美味しくない。

 麺とスープ・つゆの組み合わせは、それぞれ相性が最適なものが選ばれている。どちらかの主張が強すぎたりすると、味のバランスが壊れてしまって、美味しくない。まるで、人間の夫婦みたいである。
夫婦というのは、育った環境も食の好みも、考え方も全く違う二人が一緒になるということだ。

 だから、長年かけて最適の組み合わせになるしかない。どちらかが主張しすぎては、とてもまずい組み合わせになる。
                          
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喜食満麺その3 [エッセー]


 
 過ぎたるは猶お及ばざるがごとしとは孔子の言葉であることぐらいたいていの人は知っている。

 そして、たいていの人はそのような経験もしている。そういう意味では実に普遍的な事実であるが、この程度のことは別に孔子でなくとも言える。

 孔子が偉いのは、この普遍的事実を言語化したからではなく、教育の実践に活かしたからだと思っている。

 私にも苦い経験があるから、孔子の言葉の妥当性に頷いて、この言葉から日記を書き始めたのだ。

 私の生まれた町は、木工産業が盛んな町で、たぶんいまでもそうだと思うのだが、毎年「木工祭り」というのが開催されていた。

 このお祭りにはいろんなバザーがあって、町の婦人会のみなさんが提供してくださるいろいろな食べ物が、とても美味しかったのを覚えている。

 その中でも私のお気に入りは「ぜんざい」だった。「しるこ」と「ぜんざい」の違いは未だによく分からないが、ここでいう「ぜんざい」は汁があって、漉し餡ではなく小豆の粒餡が入ってるものだ。

 先代の林家三平が「おもちも入ってベタベタと安くてどうもすいません(渡辺即席しるこ)」という宣伝をしていたのを覚えている。しかし、「しるこ」と「ぜんざい」は何がどう違うのかはとうとう分からなかった。

 私が小学校の三年か四年の時、あまりの美味しさに、この「ぜんざい」を四杯食べたら、天罰覿面で気持ちが悪くなって食べたものを全て嘔吐した。

 それ以来、「ぜんざい」とか「いるこ」というようなものは食べない。言うまでもなく、「ぜんざい」や「しるこ」に罪があるわけではない。あまりにも、お馬鹿さんだった私に全責任があるのだ。

 人間にしろ、食べ物にしろ、あるいはペットにしろ、その関係が過ぎてはいけない。過ぎてしまうと、関係が壊れるというこはよくある。やはり、孔子の言うことは普遍性があるのであって、中庸を守るのは大事な教えである。

 あなたにも、「過ぎたるは」のような羽目に陥った食べ物や飲み物はあるはずです。ここで、正直に告白してはどうですか。


                          
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喜食満麺その2 [エッセー]


 
  日常の中にささやかな喜びを見つけることができるというのは、年齢を重ねた者の特権である。若い間は、そんなことは目に入らないし、もっともっとと求めるものがあるからだ。

 子どもの頃は、日本全体が貧しかった。食べ物のことで文句をいうなどはありえず、食べられればとりあえずそれでよい、という時代だった。私自身は好き嫌いがとても多かったので、貧しい時代には生きてゆくのが難しい子どもだった。

 しかし、卵と海苔のおかげでちゃんと生き延びていくことができた。海苔は味付け海苔も焼き海苔も好きだったし、今でもそれは変わらない。

 今の時代はなんでも食べられるが、そういう豊かな時代と、選択肢がなく、たまに口にできるものが大変なご馳走に思えた時代と比較して、どちらが幸せを感じることができるかと言う問題は、意外に難しいのだ。

 食欲がない時は、子どもの頃に好きだったものを食べるのが、生きている実感を感じられる手っ取り早い方法だ。

 みなさんは、自分を回復できる食べ物がありますか。
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動詞による人生論  その1 愛する [エッセー]

動詞による人生論 

 その1 愛する

 愛する対象は様々である。人であったり、動物であったり、草花であったり、あるいは詩歌、音楽、絵画、書、骨董、美術品などであったりと真に幅が広い。
人の場合は、親、兄弟、子供など自分の家族が対象であったり、特定の異性のことであったりと、これもまた多種多様である。最近では、恋人は異性に限定されない場合もある。
 名詞の「愛」には仏教用語として「、執着する心」という意味もあるが、動詞の場合にはそんなことはない。
ま た、物事の価値観としての大切に思うということも、「愛する」を使う。例えば、「私の父が愛した街は、京都とローマの二都市だった。なぜなら、父はいつも、そこには伝統を大切にする気風があるからだと言っていた。」というように使う。

 さて、私をこよなく愛してくれた両親はもう手の届かない処に行ってしまった。私の両親が私を愛してくれたように、私もまた息子と娘を愛している。勿論、二人の子供を産み育ててくれた妻についてはいうまでないことだ。
 しかし、私は動物そのものに興味がないから、ペットが好きだという感情はない。ただ、子犬や子猫の動画を見て可愛いと思う気持ちはある。だが、動物の糞尿の始末などする気がないので、ペットを飼う気持ちにはならない。だから、やはりペットが好きではないのだ。
 さて、ここで動物については「愛する」を使わず、さりげなく「好き」を使った。この場合、普通は犬が好きだとか、猫は好きだが犬は嫌いだ、というように使う。決して犬を「愛する」とは使わない。なぜなら、特定の「ミー」という名前の猫ではなく、猫一般を指しているからだ。しかし、私は桜の花を「愛する」と言っても、別に違和感は覚えない。日本語はその辺が微妙である。

 さて、アメリカの心理学者のルビンは、『好き(友愛)』と『愛する(恋愛)』を明確に区別しようとした。彼の主張は、『友愛』は「好意的評価」、「尊敬と信頼」、「類似性の認知」から構成され、『恋愛』は『友愛』の構成要素に加え、「親和欲求」、「援助傾向」、「独占欲」から構成される、というものだった。

 それぞれの要素について具体例
 好意的評価……「カッコいい」、「能力が在る」など、外見的又は内面的にプラスの評価をする事。
 尊敬と信頼……「貴方の判断に任せる」など、相手を信用する事。
 類似性の認知……「自分もそう思っていた」など、同一環境下に於ける感情の一致を認める事。
 親和欲求……特に根拠無しに「もっと仲良くなりたい」と思う事。
 援助傾向……「君の為なら死ねる」など、自己犠牲を伴っても相手に尽くせる事。
 独占欲……相手を「独占したい」と思う事。


 でも、実際には愛憎が綯い混ざっている場合もあるし、こういう風に機械的に割り切れるものでもない。

 たとえば、3歳の子供に弟か妹が誕生したとしよう。その子は、母親が赤ちゃんを大切にする 姿を見て、母親の愛情を独占したいと思うことがあるはずだ。独占欲は何も男女間の恋愛に限定されるものではない。


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スペイン語諺による私の人生観その3 [エッセー]

 Aquellos polvos traen estos lodos.
 あの埃が この泥をもたらす。
 一言で言えば、因果応報、自業自得ということである。また、「撒かぬ種は生えぬ」という諺もある。原因や理由のない結果は存在しない。悪因悪果、善因善果いう言葉の重みをしっかりと噛み締めれば、悪事を働こうなどとは思わないものだ。
「三思後行」(さんしこうこう)という四字熟語もある。これは、物事を行う前に三度熟考せよという意味である。くれぐれも軽い気持で悪への道を踏み出してはならない。

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喜食満麺その1 [エッセー]



「喜食満麺」とは、もちろん「喜色満面」をもじったものだ。この世は苦に満ちているが、ささやかな喜びはたくさんある。その中でも食べることに関する喜びや哀しみはどなたにもあることだろう。
 なぜ「満麺」なのかというと、私が麺食いだからだ。私が生まれたのは福岡県の筑後川の河口に位置する町である。木工産業が盛んな町で、町中は木工関係の職人が多かった。そのせいか、町の食堂では味付けは塩気が濃いものだったように思う。
 中学生の頃の大好物はラーメンだった。現在のいわゆる博多ラーメンよりも、もっと久留米ラーメンに近いものではなかったかと思う。ラーメンにいろいろな具を乗せずに、ほとんどスープと麺のみの「素ラーメン」というのが50円で食べられた。この素ラーメンを食べながら、思春期の話をいろいろとしたものだ。
 豚骨のこってりしたスープと長くて細いストレートな麺だったので、年寄りになった今でも、太い縮れた麺は好きになれない。
 三つ子の魂百までというが、それは食べ物に関しても言えることなのだろう。そうだとすれば、最後の晩餐には子どもの頃一番好きだったものを食べたいと思う。私の場合は「卵かけご飯」である。ごくごく普通の食べ方で食べるのが望ましい。
 あなたは、最後の晩餐に何を食べたいと思うだろうか。

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スペイン語の諺から考えるその2 [エッセー]

Buen consejo da dolor al oído.
 
直訳は、良い助言は耳に痛みを与える。つまり、『忠言 耳に逆らう』ということ。
 明の著作家である洪自誠には『菜根譚』という著作があるが、その第五項にこんなことばがある。
 
 耳中、常に耳に逆らうの言を聞き、心中、常に心に払(もと)るの事ありて、はじめて是れ徳に進みて行いを修むるの砥石(といし)なり。
若(も)し言々耳を悦ばし、事々心に快(こころよ)ければ、便(すなわち)この生を把(と)りて鴆毒(ちんどく)の中に埋めん。


 洋の東西を問わず、自分に厳しい批判の声があると、貴重な意見に耳を傾けようとせずに、すぐに耳を塞いでしまうのが人間であるようだ。
 通常は厳しい批判の声を聞いて、心に添わない事があるからこそ、他人の心の痛みが解かるようになるし、人徳を修めるための基盤となる心ができるものだ。もし、どんな言葉も快く楽しい事ばかりなら、自分の人生を毒の中に沈めてしまうのと同じことになる。金持ちのドラ息子がそういう例である。
 厭な話こそじっくり聞き、思い通りに行かない事も耐えて生きれば、それがそのまま道場のような役割を果すことになる。
 言い換えれば、「避けたい事から挑戦しなさい」、「人が嫌がることを率先して引受なさい」と言えるのだ。



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