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酔生夢死の世の中を渡るには、それなりの覚悟と知恵がいる。そんな覚悟も知恵もなく歩んできた人生の好きなことを、好きなように書き散らしました。

「サン・マルティンの日」 [エッセー]

 A cada cerdo le llega su San Martín.
 どの豚にも その<サン・マルティンの日=豚を殺す季節>がやって来る。
 (誰にもが過ちの結果を思い知らされる時が来る。)   
 
 自分が犯した過ちは自分が償わねばならない。とは言うものの、この世の中は不条理と矛盾に満ちているが故に、たまにはこの鉄の掟を逃れて、一生を幸せに暮らす人間がいる。
 だが、そういう人もその子孫がやがてはいずれの日にか、悲惨な人生を強いられることになる。これを言葉で証明するのは困難だが、仏教にはそういう教えがある。これを「三世因果」と言う。
 まず「三世」というのは、過去世、現在世、未来世のことである。「過去世」とは、私たちが生まれる以前のすべての過去を指し、「現在世」とは、この世に生を受けてから死ぬまでを指す。「未来世」とは、永遠の死後を指す。私たち一人一人に、この悠久の過去と永遠の未来があると仏教では説かれている。過去・現在・未来の三世を貫く生命があると言うのだ。

 さて、「生まれた」という結果の原因は何処にあるのだろうか。「過去世や未来世なんかないよ」という人もいるだろうが、私たちが生まれたということはまぎれもない「結果」である。そうであれば、どうして私は日本人のひとりとして生まれたのか。鎌倉時代や江戸時代、あるいは平成の御代ではなく、昭和時代に生まれたのだろうか。病弱で生きているのがやっとというような肉体と貧弱な頭脳、かけっこをすれば必ずビリというような体で生まれてきたのはなぜか。
 
 釈尊の言葉にはこうある。
 「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」(過去に、どんな種まきしてきたかを知りたければ、現在の結果を見なさい。未来、どんな結果が現れるかを知りたければ、現在の種まきを見なさい、分かるであろう)
 
 つまりは、「善因善果、悪因悪果、自因自果」の厳粛な因果の道理に従い、私たちの過去世の行為が現在世の私たちの境界(きょうがい)を生み出したのである。
 さて、スペインでは11月11日は「サン・マルティンの日」であり、フランスでは聖マルティヌスの日と呼ばれるこの日は、「収穫祭の日」である。
 
 スペインではこの日にブタを屠殺・解体して冬に備える慣わし、マタンサがある。このため、「それぞれのブタにサン・マルティンの日が来る」ということわざがある。ブタのような見下げ果てた人間にもいずれ悪事のツケが廻ってくる、という語意である。
 
 私達は「豚のように見下げた人」になってはならない。人間として誇り高く生きねばならない。それでも、やはり自分撒いた禍は、自分で刈り取るしかないのだ。


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「与えよ、さらば与えられん」 [エッセー]

 Date et dabitur vobis. 「ダテ・エト・ダビトゥル・ウォービース」と読む。

 『新約聖書』ルカの福音書6章の言葉「与えよ、さらば与えられん」 という意味である。
 この言葉は、しかし、先に何かを相手に与えれば見返りが後から回り回って帰ってくる、というような物的な報酬の関係を表すのではない。無償・無条件の奉仕によって、自己の内面や他者を通じて神の祝福が与えられるという、精神的な報酬の関係として捉えられるべきである。
 自分にとって価値のあるものを相手に与えることは、なかなか難しいものだ。自分にとって不要になったものを与えるのは、「捨てる」という行為と何ら変わりない。しかも、感謝して貰いたいとか、見返りをきたいしたりしては意味がない。無償かつ無条件の施しが出来なければ、神の祝福はないというのだ。

 これは、伝教大師最澄の『己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり』という言葉とぴったり重なる。自分のことは後にして、まず人に喜んでいただくことをする、それは仏さまの行いで、そこに幸せがあるのだという意味だろう。つまり我欲が先に立つような生活からは幸せは生まれないのだということである。「言うは易し、行うは難し」である。

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