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酔生夢死の世の中を渡るには、それなりの覚悟と知恵がいる。そんな覚悟も知恵もなく歩んできた人生の好きなことを、好きなように書き散らしました。

喜食満麺その5 [エッセー]

喜食満麺その5
 
 水はすべての生き物にとって最も大切な要素であることは言うを待たない。
 そして、水は温度条件により、液体、固体、気体と三つの相を取る不思議な物体だ。
 ヒトの場合、赤ちゃんが生まれてくる時は80%程度の水分であるが、死んで行く時は50%程度の水分保有率だそうだ。つまり、ヒトは、絹ごし豆腐として生まれ、高野豆腐になって死んで行くのだ。
 そんなにも大切な水だが、私達は水資源を大切にしていない。日本の水道は、蛇口からそのまま水を飲んでも問題がないほど整備されている。他の国で蛇口からそらまま水を飲むことは考えられない。雑菌や微生物の処理が行き届かないし、水の硬度が高過ぎて飲用に適さないという問題があるのだ。
 上善如水というお酒がある。限りなく水に近いと行ってもいいようなきれいですっきりした味わいのある、新潟の銘酒だ。
 この言葉は老子の言葉が元になっている。
 第一に水は方円の器に随い、天地間に水なくして存在するものはない。
 第二に水は低い方へ低い方へと流れる。
 第三に低いところに水が溜るから自分も大きくなる。

 ヒトは、しかし、水のような生き方はできない。いつも自分というものがあって、自分にとって有利な方向に向かうように、としか考えないからだ。しかも、自分にだけ有利になるようなことはあり得ないし、不可能だと分かっているのに、なんとか自分だけは有利になりたいとい、誠に愚かな生き物である。
 液体にも気体にもなれないヒトという生き物は、そういう生き方しかできないのだと自覚して生きれば、なんとか自分さえよければいい、という生き方から少しだけ抜け出ることができる。
 高野豆腐になりつつある私は、精神だけでも水のようにさらさらと流れていきたいと思う。流れていれば濁りはしない。流れが止まったり、溜まったりすると、とたんに濁り始める。それは、お金が貯まるととたんに傲慢になる人間を見ていればよく分かる。
                          

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喜食満麺その4 [エッセー]

 喜食満麺その4
 
麺類は人類を救う。私は、麺食い人間としてそのように信じている。麺類の特質は次のとおりだ。
 まず、麺類は様々な麺がある。うどん、ラーメン、チャンポン-、蕎麦、パスタ、韓国の冷麺、中央アジアのラグマン、ベトナムのフォーなどなど。あ、ラグマンというのはうどんのようなもので、トマトベースのスープに羊肉が入ってるらしい。
 次に様々な形状、直径、の組み合わせによって、固くて細い麺とか太くて柔らかい麺などいろいろな麺ができるので、食感の違いが楽しめる。それから、麺類には様々な具材を合わせることができる。そして、それぞれの麺にあったスープ、つけ汁、出汁のバリエーションがある。
 また、ラーメンに代表されるように、それ一食でフルコースになりうる。スープ、前 菜、メイン、そしてお腹を満たす澱粉質。
 麺は長寿の象徴でもある。しかし、私は長く生きたいとは思わない。長生きするよりも濃密に楽しく生きたい。エンディング・ノートにも、治癒する病気なら治療をして欲しいが、単なる延命治療ならやめてむもらいたいと明記している。人間がチューブでつながれてスパゲッティ状態になるのは拒否したい。医師に頼んで上手に麻薬を使ってもらい、痛みのない死を迎えたいと思っている。(末期に使う痛み止めは麻薬である)
 今の日本人は「健康」という妄想にとりつかれていて、少しでも体調が悪いと病院に駆け込むようだが、生き物だから体調不良は時々あるのが当然だ。やたらと長生きしてどうするつもりなのか。しかし、長寿は願わなくても、美味しい麺類を食べるのは喜びだ。
 おおざっぱに言うと、関西はうどん圏であり、関東以北は蕎麦圏である。しかし、讃岐うどんと博多うどんでは麺のコシが違う。また、スープやつゆとの麺の組み合わせも大切だ。蕎麦つゆでうどんを食べても美味しくないし、関西のうどんのつゆでざる蕎麦を食べても美味しくない。
 麺とスープ・つゆの組み合わせは、それぞれ相性が最適なものが選ばれている。どちらかの主張が強すぎたりすると、味のバランスが壊れてしまって、美味しくない。まるで、人間の夫婦みたいである。
 夫婦というのは、育った環境も食の好みも、考え方も全く違う二人が一緒になるということだ。

 だから、長年かけて最適の組み合わせになるしかない。どちらかが主張しすぎては、とてもまずい組み合わせになる。

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喜食満麺その3 [エッセー]

 喜食満麺その3
 
 過ぎたるは猶お及ばざるがごとしとは孔子の言葉であることぐらいたいていの人は知っている。
 そして、たいていの人はそのような経験もしている。そういう意味では実に普遍的な事実であるが、この程度のことは別に孔子でなくとも言える。
 孔子が偉いのは、この普遍的事実を言語化したからではなく、教育の実践に活かしたからだと思っている。
 私にも苦い経験があるから、孔子の言葉の妥当性に頷いて、この言葉から日記を書き始めたのだ。
 私の生まれた町は、木工産業が盛んな町で、たぶんいまでもそうだと思うのだが、毎年「木工祭り」というのが開催されていた。

 このお祭りにはいろんなバザーがあって、町の婦人会のみなさんが提供してくださるいろいろな食べ物が、とても美味しかったのを覚えている。
 その中でも私のお気に入りは「ぜんざい」だった。「しるこ」と「ぜんざい」の違いは未だによく分からないが、ここでいう「ぜんざい」は汁があって、漉し餡ではなく小豆の粒餡が入ってるものだ。
 先代の林家三平が「おもちも入ってベタベタと安くてどうもすいません(渡辺即席しるこ)」という宣伝をしていたのを覚えている。しかし、「しるこ」と「ぜんざい」は何がどう違うのかはとうとう分からなかった。
 私が小学校の三年か四年の時、あまりの美味しさに、この「ぜんざい」を四杯食べたら、天罰覿面で気持ちが悪くなって食べたものを全て嘔吐した。
 それ以来、「ぜんざい」とか「いるこ」というようなものは食べない。言うまでもなく、「ぜんざい」や「しるこ」に罪があるわけではない。あまりにも、お馬鹿さんだった私に全責任があるのだ。
 人間にしろ、食べ物にしろ、あるいはペットにしろ、その関係が過ぎてはいけない。過ぎてしまうと、関係が壊れるということはよくある。やはり、孔子の言うことは普遍性があるのであって、中庸を守るのは大事な教えである。
 あなたにも、「過ぎたるは」のような羽目に陥った食べ物や飲み物はあるはずです。ここで、正直に告白してはどうですか。
 

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喜食満麺その2 [エッセー]

喜食満麺その2

 日常の中にささやかな喜びを見つけることができるというのは、年齢を重ねた者の特権である。若い間は、そんなことは目に入らないし、もっともっとと求めるものがあるからだ。
 子どもの頃は、日本全体が貧しかった。食べ物のことで文句をいうなどはありえず、食べられればとりあえずそれでよい、という時代だった。私自身は好き嫌いがとても多かったので、貧しい時代には生きてゆくのが難しい子どもだった。
 しかし、卵と海苔のおかげでちゃんと生き延びていくことができた。海苔は味付け海苔も焼き海苔も好きだったし、今でもそれは変わらない。
 今の時代はなんでも食べられるが、そういう豊かな時代と、選択肢がなく、たまに口にできるものが大変なご馳走に思えた時代と比較して、どちらが幸せを感じることができるかと言う問題は、意外に難しいのだ。
 食欲がない時は、子どもの頃に好きだったものを食べるのが、生きている実感を感じられる手っ取り早い方法だ。
 みなさんは、自分を回復できる食べ物がありますか。

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喜食満麺その1 [エッセー]



「喜食満麺」とは、もちろん「喜色満面」をもじったものだ。この世は苦に満ちているが、ささやかな喜びはたくさんある。その中でも食べることに関する喜びや哀しみはどなたにもあることだろう。
 なぜ「満麺」なのかというと、私が麺食いだからだ。私が生まれたのは福岡県の筑後川の河口に位置する町である。木工産業が盛んな町で、町中は木工関係の職人が多かった。そのせいか、町の食堂では味付けは塩気が濃いものだったように思う。
 中学生の頃の大好物はラーメンだった。現在のいわゆる博多ラーメンよりも、もっと久留米ラーメンに近いものではなかったかと思う。ラーメンにいろいろな具を乗せずに、ほとんどスープと麺のみの「素ラーメン」というのが50円で食べられた。この素ラーメンを食べながら、思春期の話をいろいろとしたものだ。
 豚骨のこってりしたスープと長くて細いストレートな麺だったので、年寄りになった今でも、太い縮れた麺は好きになれない。
 三つ子の魂百までというが、それは食べ物に関しても言えることなのだろう。そうだとすれば、最後の晩餐には子どもの頃一番好きだったものを食べたいと思う。私の場合は「卵かけご飯」である。ごくごく普通の食べ方で食べるのが望ましい。
 あなたは、最後の晩餐に何を食べたいと思うだろうか。
 

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死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり 臼田亜浪 [エッセー]

死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり 臼田亜浪
 
つつじの燃えあがる赤は生命の燃焼の激しさそのものだ。だからこそなお一層、燃え上がる生終焉である死が意識される。どんなに巨大な蝋燭でもいつかは燃え尽きるように、燃え続ける命というものはない。生と死の奏でる激しくも哀しい音楽である。
 
 空海の『秘蔵法鑰』には、このような言葉がある。
 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めにくらく、死に死に死に死んで死の終りにくらし。
 
 自分はどこから生まれ、どこへ死んでいくのか、生まれるとは何か、死とは何かと言う一大事を、人はなおざりにして何も考えずに人生をおくっている。無常迅速である。便々として日々を送ってはいけない。

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『菜根譚』前集第百十八項から [エッセー]

 『菜根譚』前集第百十八項から
 
 衰颯的景象、就在盛満中。
 発生的機緘、即在零落内。
 故君子、居安宜操一心以慮患、処変当堅百忍以図成。

 衰颯(すいさつ)の景象(けいしょう)は、就(すなわ)ち盛満(せいまん)の中(なか)に在り、発生の機緘(きかん)は、即(すなわ)ち零落(れいらく)の内(うち)に在る。
 故に、君子は安(やす)きに居(お)りて、宜(よろ)しく一心(いっしん)を操(と)り、以って患(うれい)を慮(おもんぱか)り、変(へん)に処(お)りて当(まさ)に百忍(はくにん)を堅(かた)くして以って成(な)るを図(はか)るべし。
 
 衰退の兆しは隆盛の時に始まり、芽吹きは葉が枯れて落ちる時に始まっている。
 故に、上に立つ者は繁栄している時に、将来の危機管理に心を集中し、非常事態とあればしっかりと耐える準備をしておくこと。
 
 つまり、原因は結果の中に潜んでいるし、結果は原因の中に潜んでいるので、上に立つ者は「陽」の時には「陰」に備え、「陰」の時は「陽」に備えてくべきなのだ。
 

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『菜根譚』前集第六十七項から [エッセー]

『菜根譚』前集第六十七項から

 人知名位為楽、不知無名無位之楽為最真。
 人知饑寒為憂、不知不饑不寒之憂為更甚。

 人は名位(めいい)の楽しみ為(た)るを知りて、名(な)無く位(くらい)無きの楽しみの最(っと)も真(しん)たるを知らず。
 人は饑寒(きかん)の憂(うれ)い為(た)るを知りて、饑(う)えず寒(こご)えざるの憂いの更(さら)に甚(はなはだ)しきたるを知らず。

 俗人は、地位や名誉の有る人が理想と考えることが多いが、地位も名誉も何もない人のが最も幸せだということを知らない。
 俗人は、餓えや凍えが厳しいことを知って不安になることを知っていても、十分に満たされている者の不安が最も深刻であることを知らない。

 つまり、隣の芝生は良く見えるが、その芝生を手に入れると幸せどころか大きな不安を手に入れることになるというようなものだ。
 言い換えれば、無い物ねだりは悲惨の極みということ。

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短命の螢に老はなかるべし   [エッセー]

安住 敦
 
 短命の螢に老はなかるべし  

 いかなる生物にも誕生と死は付きまとう。したがって、いかなる生物にも「老い」はある。ただ、詩歌の作り手が、己の感性、独断、偏見に基づいて詩歌を作るときには、そのような事実には囚われなくてもよい。短命の螢に「老はなかるべし」と作り手が感じたのであれば、それが作り手にとっての真実である。事実はここでは作り手の邪魔をしてはならないのである。それが詩歌に於ける「真実」の秘密である。
 蛍やウスバカゲロウのような儚い命しかない生物の老いなど、長生きする動物の人間からすると、とても判断できるものではなかろう。生物の専門家が観察すれば分かるのだろうが、一般人に分かるはずがない。
 兎にも角にも、美しく輝きながら舞う蛍を見ながら、この作者は「老はなかるべし」と思ったのだ。
 美しく輝くこともできず、自由に空を舞うこともできない人間は、昨年までできたことが今年はできなくなるとう「老い」の辛さや哀しさを背負いながら、無惨に生きねばならない。それに比べると、この美しく輝きながら空を舞う蛍という生き物には、「老い」などないのだろうなと羨ましい気持になったのだろうか。それとも、無惨に生きねばならない人間の惨めさを感じたのだろうか。
 


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ならぬもの十訓 [エッセー]

1.忘れては ならぬもの「感謝」
2.言っては ならぬもの「愚痴」
3.曲げては ならぬもの「つむじ」
4.起こしてはならぬもの「短気」
5.叩いては ならぬもの「人の頭」
6.失っては ならぬもの「信用」
7.笑っては ならぬもの「人の落ち度」
8.持っては ならぬもの「ねたみ」
9.捨てては ならぬもの「義理人情」
10.乗ってはならぬもの「口車」

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仏説父母恩重難報経 その2 [エッセー]


 前回の続き。

 6. 洗潅不浄の恩(せんかんふじょう)
 子がふところや衣服に尿するも、自らの手にて洗いすすぎ、臭穢をいとわない。

 7. 嚥苦吐甘の恩(えんくとかん)
 親は不味いものを食べ、美味しいものは子に食べさせる。

 8. 為造悪業の恩(いぞうあくごう)
 子供のためには、止むを得ず、悪業をし、悪しきところに落ちるのも甘んじる。

 9. 遠行憶念の恩(おんぎょうおくねん)
 子供が遠くへ行ったら、帰ってくるまで四六時中心配する。

 10. 究竟憐愍の恩(くっきょうれんみん)
 自分が生きている間は、この苦しみを一身に引き受けようとし、死後も、子を護りたいと願う。

 もちろん、父母の恩愛はこれだけにとどまらないが、代表的ななものとして取り上げられている項目は、ひとつひとつ胸に迫る。我々が父母から受けた恩愛を自分たちの子どもに注ぐ。その繰り返しが人類の歴史である。動物も人間も親子の愛には変わりがない。

 このようなありがたい親の恩愛を受けながら、自殺に走ってしまう子どもたちもいることを考えると、なんもやるせない気持ちになる。日本の年間自殺者数は毎年三万人を下らないが、その6割は中高年である。
 しかし、自殺未遂者はきっと青少年の女性に多いと思われる。自殺に関しては、男性の方が遂行してしまう確率が高いようだ。
 未遂にせよ自殺を少しでも考えるような青少年諸君には、この父母の恩愛の深さを考えて自殺を思いとどまってほしいものだ。

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仏説父母恩重難報経 その1 [エッセー]


 仏説父母恩重難報経というのがある。仏教経典といわれるが、儒教的要素に満ちている。それもそのはずで、中国で作られたものである。現在の文献学の判断では偽経であると判断されている。しかし、これが偽経であろうとなかろうと、読む人の胸を打つ書物であることは疑いがない。
 我々が母の胎内に宿ってからどれほど父母の愛や恩をもらったのか、文字の国の中国らしい表現で我々の胸に迫る。それは異様な迫力である。
 父母の恩愛には十種類あるとしているが、今回は全般の五種類を書き込もう。
 父には慈しみの恩あり、母には悲(あわ)れみの恩があるという。ひとつずつ取り上げよう。

 1. 懐胎守護の恩(かいたいしゅご)
 初めて子を体内に受けてから十ヶ月の間、苦悩の休む時がないために、他の何もほしがる心も生まれず、ただ一心に安産ができることを思うのみである。

 2. 臨生受苦の恩(りんしょうじゅく)
 出産時には、陣痛による苦しみは耐え難いものである。父も心配から身や心がおののき恐れ、祖父母や親族の人々も皆心を痛めて母と子の身を案ずるのである。

 3. 生子忘憂の恩(しょうしぼうゆう)
 出産後は、父母の喜びは限りない。それまでの苦しみを忘れ、母は、子が声をあげて泣き出したときに、自分もはじめて生まれてきたような喜びに染まるのである。

 4. 乳哺養育の恩(にゅうほよういく)
花のような顔色だった母親が、子供に乳をやり、育てる中で数年間で憔悴しきってしまう。

 5. 廻乾就湿の恩(かいかんじつしつ)
水のような霜の夜も、氷のような雪の暁にも、乾いた所に子を寝かせ、湿った所に自ら寝る。

 ここまで読んできただけで、子を思う父母の恩愛の深さに心が震えるばかりだ。


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アレッサンドロ・ザナルディ [エッセー]

 アレッサンドロ・ザナルディというイタリア人のレースドライバーがいるそうだ。ザナルディは、レース中の事故で両足を失うという重傷を負ったが心折れる事なく、退院後に直ちに義足を作りリハビリを開始した。

「あのレースの残りの周回を走ってみないか」という、当時のレース主催者の粋な計らいで、義足でレースカーを運転したのだが、ゆっくりした走りでは家族は喜ばないと考えたザナルディはコースを疾走した。そして、両足を失った事故のあのレースでも入賞できるのではないかというタイムをたたき出したそうです。やがて義足でレースに復帰し、世界ツーリングカー選手権に参戦した。
 その後引退しパラリンピックを目指し、2012年にロンドンパラリンピックのイタリア代表に選ばれた。ザナルディは2種目で金メダルを獲得した。
 優勝した後にBBCの取材にザナルディはこう語った。
「20歳の時なら、メダルに価値を感じていただろう。でも、40歳になると毎日積み重ねてきたことに価値を感じるよ。(中略)実現できない夢を追うべきじゃないのはもちろんだけど、もし地平線が見えるならやるべきだよ。幸せはいつも、コーナーを曲がった先にあるのだから」とコメントした。そして再びカーレースの世界に復帰したのだ。

 上に記載したその時の言葉が泣かせるではないか。
「地平線が見えているのならやるべきだよ。幸せはいつも、コーナーを曲がった先にあるのだから」

 いくつもあるコーナーは、レースドライバーには危険だがスリルに満ちた難所だろう。だが、私達のような普通の人間にも、人生の曲がり角はいくつもある。受験、恋愛、結婚、結婚、出産、子供の受験、昇進、降格、退職と枚挙に暇がない。レースにコーナーがない直線だけのレースがないように、人生にも曲がり角のない人生はない。「幸せはいつもコーナーを曲がった先にあるのだから」という彼の言葉は、人生をよりよく生きようと思う人には、大切で重要な示唆である。

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歌詠みに非ず11 [エッセー]

嚥下する歌の水子と苦き唾美神はどこに潜みておらむ

 短歌にせよ詩にせよ、すらすらとできるなどと言うことはなく、作る時には私は呻吟する。しかし、中には、一気に作ったかのように非常になめらかに読める短歌を作る人もいる。西行や良寛の作品などは、私にはそのように読める。
 
 古代支那の唐王朝時代の李白と杜甫を比較しても良い。李白は一気呵成に作品を作る天才であり、杜甫は苦しみもがいて作品を作るタイプであると、私は思っている。もちろん、上記の四人の数多い作品の中には、そうはいかない作品もあることは間違いないが。

 言語による作品を作る際には、当然のことながら、多数の作品にならなかった言葉の集団がある。私は、それらの集団を破棄するとき、苦い唾を飲み込むような思いをすることが多い。

 上記の四人のように有名ではない歌人や詩人というのも数多存在したし存在するわけだが、そのような中にも入ることが出来ない極一般の人間に過ぎない私には、美の神がどこに潜んでいらっしゃるのか、全く見当も付かない。

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歌詠みに非ず10 [エッセー]

わが内の螺旋形した遺失物無くせしものは輝いて見え

 人は生きて行くに従い、多くのものを得るし、多くのものを失う。他人よりもより良い人生を送るためにという目的のために、より良い教育を受け、より良い大学を目指すためには、青春の楽しみを放擲しなければならない場合もある。楽しい青春を送ることだけに注意を払い、就職も思うに任せなかったと言う人もいる。
 あれを得れば、これを失う。あれもこれもえられるということはない。それが世の中の原則なのである。それに気が付く人もいれば、気が付かない人もいる。そんなことは何も考えずに年を取る人もいる。何も気が付かない人は、それなりに幸せであろう。
 しかし、人生に満ちている矛盾、不条理、苦悩、喜びなどと関わりを持つことは、人生をより一層深くするものでもある。



 



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歌詠みに非ず9 [エッセー]

救済も安堵もついに訪れず 与えよさらば与えられん(Date et dabitur vobis)
 注 Date et dabitur vobisとはラテン語で、ダテ・エト・ダビトゥル・ウォービースと読む。意味は与えよさらば与えられん。

 いつも、いつも他人に何かを求めてばかりでは、自分の救済も安堵も得られるわけがない。何故なら聖人でもない限りは、人間はそれぞれ自分の利益を第一に考える。だから、何かの見返りが得られない限りは「なぜ私があなたにそんなことをしてやらねばならないのか」と言う反発に遭うのが関の山である。
 金銭的欲求ではない事柄でも、自分と意見の違う相手を変えてやろうと思ったところで、簡単に相手を変えることは不可能に近い。だから、自分の考えを変えるしかない。自分の考えを変えるとは、何もかもすべて相手に合わせることではない。受け容れることができる範囲で受け容れ、受け容れられないところは拒否する。それだけで良い。すべてが受け容れなければ、その人とは没交渉にしてしまい、二度と会うことがないようにするしかない。没交渉の関係にしたくても、そのように出来ない相手であれば、その話題には触れないことにすれば良い。意見の合わない事柄については回避し続けるのが最良の手段である。それなのに「俺の考えの方が正しいから、あいつにこれを認めさせてやろう」などと力むのは馬鹿のすることだ。
 与えることはすなわちえることでもあると心得よ。

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歌詠みに非ず8 [エッセー]

救済も安堵もついに訪れず 与えよさらば与えられん(Date et dabitur vobis)
 注 Date et dabitur vobisとはラテン語で、ダテ・エト・ダビトゥル・ウォービースと読む。意味は与えよさらば与えられん。

 いつも、いつも他人に何かを求めてばかりでは、自分の救済も安堵も得られるわけがない。何故なら聖人でもない限りは、人間はそれぞれ自分の利益を第一に考える。だから、何かの見返りが得られない限りは「なぜ私があなたにそんなことをしてやらねばならないのか」と言う反発に遭うのが関の山である。
 金銭的欲求ではない事柄でも、自分と意見の違う相手を変えてやろうと思ったところで、簡単に相手を変えることは不可能に近い。だから、自分の考えを変えるしかない。自分の考えを変えるとは、何もかもすべて相手に合わせることではない。受け容れることができる範囲で受け容れ、受け容れられないところは拒否する。それだけで良い。すべてが受け容れなければ、その人とは没交渉にしてしまい、二度と会うことがないようにするしかない。没交渉の関係にしたくても、そのように出来ない相手であれば、その話題には触れないことにすれば良い。意見の合わない事柄については回避し続けるのが最良の手段である。それなのに「俺の考えの方が正しいから、あいつにこれを認めさせてやろう」などと力むのは馬鹿のすることだ。
 与えることはすなわちえることでもあると心得よ。

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歌詠みに非ず7 [エッセー]

寂寞の請求書ばかりの過去ゆえに空は飛ばぬと鴎は告げる

 いつも、いつも請求書ばかりを相手に突きつけて友人をなくす人もいれば、格別な恩恵にあずからなくても感謝の気持ちという領収書を発行し続ける人もいる。どちらが幸福な人生を送れるのかは、詳しく説明しなくても分かるだろう。
 
 ここで言う「請求書」とは、相手に対して何かの援助や協力ばかり要求する人のことである。「領収書」とは、「ありがとう」と言う気持を相手に伝えたり、受けた恩恵をお返ししたりすることである。
 

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歌詠みに非ず6 [エッセー]

希望から絶望に至るグラデーション行方不明のわが座標軸

 幼少期の人生は希望に満ちているに見える。しかし、思春期になり勉学に勤しむ内に、自分の才能あるいは嗜好などから、少しずつ限界を感じるようになる。中学生、あるは高校生になる頃に、自分の限界を知ることになるのだ。
「十歳で神童、十五歳で才子、二十歳過ぎればただの人」という言葉を噛み締めざるを得なくなるのである。
 
 これはスポーツでも同じようなものである。小学生の頃は、近隣の学校ではみんなが知っている有名なサッカー少年であっても、中学生になれば「かなり上手な子だ」という評価になる。高校生に鳴ったら、今度は「まあまあの選手だ」という評価になり、大学生ともなると並みの選手の一人であると言う評価しか貰えなくなる。

 人は、よほどの天賦の才能と血の滲むような努力によってしか、高い評価は得られない。だから、人は中年になったら、自分の限界を良く見極めて、趣味の世界に没頭することを自分の老後の目標に定めるのか、あるいはただひたすら出世を目指すのか、いずれかの時点で決めねばならない。
 自分の限界に早い段階で気が付いて、目標を決める人は、意外と引退後の人生も楽しめるだろうが、そうでない人は、いつまでも苦い思いを噛み締めていきていかねばならないことになる。



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