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酔生夢死の世の中を渡るには、それなりの覚悟と知恵がいる。そんな覚悟も知恵もなく歩んできた人生の好きなことを、好きなように書き散らしました。

人生と旅の類似性 [エッセー]

人生と旅の類似性
 家にあれば妹(いも)が手まかむ草枕旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ 聖徳太子 『万葉集』巻三挽歌
 家にいれば妻の手を枕にしているだろうに、旅に出ているので草を枕に倒れ臥しているこの旅人は哀れだ。
 現在では旅は目的があって旅に出る場合もあれば、目的なしに足の向くまま気の向くままに旅にでかけることもある。しかし、現代とは違って、古代では道も整備されておらず、自動車やバスもなく、自分の足で歩くしかなかった。歩いているときに、足を挫いたり、足の骨を折ったりすることもある。また、危険な動物や追い剥ぎ、夜盗などに遭う危険性もあった。それでも、目的があれば旅をせざるをえなかった。つまり、昔の人は様々な危険性を覚悟の上で旅に出たのである。
 人生に於いては、目的を果たすためには、取らねばならないリスクを覚悟で敢行することもあるだろう。危険性を避けてばかりではいられないのが人生でもある。しかし、人生に何か目的があるのかというと、答えに窮するだろう。
 例えば、お金持ちになることを「目的」として生きている若い人がいると仮定する。その人が40歳で大変なお金持ちになったとする。その人は既に人生の「目的」を果たしたとして、それからまた新しい「目的」を探すのだろうか。それでは答にはならない。なぜなら、さらに数十年は生きねばならないからだ。つまり、この場合、お金持ちになるというのは「目的」ではなく、ただの「目標」である。人間は生まれてから死ぬまでの「目的」などは、ありはしない。「目標」はいくつか設定して達成することが出来る。金持ちになって、家を建てて外車を購入して、若くて綺麗な女を妻にしてなどと、設定することが可能だし、達成することも可能だろう。
 なにはともあれ、目的があろうとなかろうと、私達は生きねばならない。目的がない限りは、旅はしなくても良い。しかし、旅がしたければ旅をしても良い。しかし、生きるということは、最期の日まで歯を食いしばって生きねばならない。途中で、「やめた」と放り出すわけにはいかない。


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てふてふ [エッセー]

てふてふ
 
 蝶々(てふてふ)のもの食ふ音の静かさよ 高浜虚子

 当たり前のことだが、蝶々は草木の蜜を吸う。あくまでも「吸う」のであって、「食べる」のではない。しかし、一流の俳人は「吸う」と言わず、「食べる」と書いた。大岡信は、このことをこう評した。
「この時蝶の営みはまた、あらゆる生物の『もの食ふ』営みを暗示するものにまで高まった。一見非現実的な直観画、ありきたりの写実の達しえぬ生の一例。」
 一流の俳人を一流の詩人が評したものとして、この批評は素晴らしい。
 そして、「てふてふ」という文字を目にすると必ず思い出す詩がある。

 てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。 安西冬衛 『軍艦茉莉』

 蝶々のようなか弱い生き物が越えられるはずもない韃靼海峡(タタール海峡あるいは間宮海峡の古称)を飛んでいくのである。そして、私の中では、その季節は強い風が吹く真冬なのである。強風や荒波をものともせずに、一匹の「てふてふ」が韃靼海峡を飛んでいくのだ。ああ、私の雄々しい「てふてふ」が飛んでいき、私の魂がその「てふてふ」を追いかける幻影が見えるのだ。
 二流にも三流にもなれなかった私は、このような素晴らしい詩歌を読んで、残りの生を過ごしたい。


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「ない」ことの重要性 [エッセー]

「ない」ことの重要性
 
 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮 藤原定家
 
 塚本邦雄は、この歌を基にして次のような詩を書いた。
 はなやかなものはことごとく消え失せた
 この季節のたそがれ
 彼方に 漁夫の草屋は傾き
 心は非在の境にいざなはれる
 美とは 虚無のまたの名であつたらうか

 塚本邦雄はたった一言で「非在の美」と称したが、私はそれには同意しない。世の中には「あるようでないもの」や、「ないようであるもの」に満ち溢れている。私達の心の中にも、当然それらはある。
 「あるようでないもの」の代表格は、他人への「慈悲の心」であろう。「ないようであるもの」の代表格は、「嫉妬心」であろう。
 仏教では慈悲の心が大切だと言う。それは分かる。しかし、普通の人には慈悲心などはないと思う。そのことは、私自身がインドに行ったときに理解できた。物乞いやお土産を押しつけてくる子供達を前にして、いちいち対応できるものではない。あのような、生きるのが過酷な国では、慈悲心の持ちようなど全くないのだ。慈悲心を持つ、それに対応していれば、ものの数分と立たないうちに心が押しつぶされる。
「ないようであるもの」についてはいちいち説明するまでもない。日常の己の心を見つめていれば、すぐに理解できる。そんなことはないと言える人は、よほど鈍感か傲慢な人だ。
 そして、「ないものはない」のである。完璧な人間などいない。完璧な美などない。完全無欠の思想などない。ない内からこそ、限られた者の中から選び出して満足するほかはない。それが安心につながる。つまり、それが「ない」ことの重要性なのだ。
 徒然草第137段には、こうある。「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。」
「ない」ことの重要性は、ここに明確に示されている。


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 [エッセー]



 鮟鱇も わが身の業も 煮ゆるかな 久保田 万太郎

 業という言葉は、行為、所作、意志による身心の活動、意志による身心の生活を意味するらしい。日本語では「業」と言うがインドのもともとの言葉は「カルマ」というものだそうだ。
 仏教では、「身口意の三業(しんくいのさんごう)」と言い、身体でやったことを「身業(しんごう)」、口でしゃべったことを、「口業(くごう)」、心で思ったことを「意業(いごう)」と言う。
 バートランンド・ラッセルの言葉だったか、誰の言葉だったか思い出せないが、心で思うだけで願いが叶うのであれば、世の中には死体と妊婦で満ち溢れているだろうという意味のことを言った人がいた。
 つまり、言葉にはしないし、実際の行為には出ないものの、強い殺意を持った人とか女なら手当たり次第に性欲を満たしたいと思う男で世の中は満ち溢れているという意味だろう。
 心の中で思うだけであっても、それは善くない行為だとして、自分を戒めねばならない身口意の三業を慎むことで果報を得られる。
 それにしても、加齢とともに欲望が少なくなってきて、我が身の業も少しは減ってきたのかなと思いつつ、やはり欲望に振り回される。そんな愚劣な日々を重ねるのが人という生き物なのだろう。


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万葉集の詠み人知らずの歌一首と屈原 [エッセー]

 福(さきはい)の いかなる人か 黒髪の 白くなるまで 妹(いも)が声を聞く よみ人しらず 万葉集
 
 黒い髪が白くなるまで愛しい妻の声を聞いて暮らせる人は、どんな大きな幸せの持ち主だろうという意味だ。若くして愛する妻を亡くしてしまった男の嘆きなのだろう。しかし、世の中の大抵の年老いた男は、今日もまた古女房にガミガミと口うるさく文句を言われて、渋い顔をしていることだろう。私もそのひとりである。
 古女房には感謝しているし、いまさら古女房以外のだれかに女房になって貰いたいなどと考えているわけではない。ただ、口うるさいのがなんとかならないかと不満を持っているに過ぎない。第一、年を取ると生活パターンが決まっているで、古女房以外のだれにもパートナーは任せられない。そこには強い信頼感があるのだ。
 理想と現実との間にはいつもおおきな溝があるものだ。一方では、若くして妻を亡くした場合の男の嘆きもまた容易に理解できる。人は常に理想を求めて現実には不満なのである。
 個人の場合でもそうなのであるから、これが会社や国家などの組織になった場合には、様々な摩擦が起きることも容易に想像できる。
 現実の場合には、力が強い者の主張を受け入れるしかない。会社で、社長の命令が不満だからと言って反旗を翻せば、馘首されるだけである。強大国の横槍に不満を持ったからと行って抗議すれば、さらに強くいためつけられるだけである。
 そうならば、理想と現実の狭間で藻掻き苦しむことはない。理想という厄介なものを放り投げて、現実に沿った生き方を取れば良い。とここまで考えたら、やはり屈原と漁夫の会話に戻ってしまう。   
 水が汚ければ足紐を洗い、水が綺麗であれば冠の紐を洗うと漁夫は言った。屈原と漁夫のどちらが正しいとも言えないのが本当だろう。屈原と漁夫の話は見解の違いであって、正誤の問題ではない。屈原と言う人物は一流の人間ではあっても、清濁を併せのめる政治家には相応しくなかったのだ。
 

 
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歌集 「青春」から [短歌]

夕暮れに立つ風ありて心暗しこの町には生きていられぬ故

口づけの口よりもるるたましいの我に返らず彷徨えよ心!

見上ぐれば星ひとつなき晴天よマッチ擂り惚れ直している

君が弾くピアノの音のやや暗し炎天に舞う蝶は何処へ

六畳の真暗き下宿に灯り付け出さざりきラブレター光る

眉上げし瞳の底に敵意見ゆ十二の初潮仏滅の日の妹

唇に笑み含みおる妹の手に握られし首なしの雀

その夕べ妹は静かに熟しおり「愛のおのずから目覚める時までは」

父のその猫背に積もる九十年ふと問いたきは「何故に我を生みし?」


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歌集 「青春」から [短歌]

マラソンの走り過ぎたる青春の童貞の影水面に残る

エロチスム没我状態恍惚境妹は読むバタイユ著

青春の傷癒えゆかんコーヒーの底に溶けつつある角砂糖

春浅き星降る夜の水晶蝶傷みし夢を追いつつ飛ぶか

紺青の孤独抱きしむ浅き春雪の下草根に絡まる血

海風に一人吹かれて山晴れる沖に流せし「遅すぎる出会い」

聖母マリアを讃える歌を覚えしは処女喪失の日雪降る日なり


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歌集 「青春」から数首 [短歌]

押花のごとく日記にはさみたり人に捧げしがむしゃらの愛

山猫を抱けばほのかに君の香りがする妹よ愛は雪なり!

その背(せな)に光受けつつ歩む人優しく更に優しき女(ひと)よ

頑なのわが心をも溶かし行け春の陽注ぐ雪解けの朝

恋唄は哀しきまでに響きおり胸去りやらぬ幻の花、と

この夜の静寂に閉じるマタイ伝星に及びぬ「ひそかなる思慕」

雪の日に愛欲すれば風強し冬ざれた街を鳩は飛び交う

照らされて渇けばビール喉にうまし人の心は何にて潤うや?

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『菜根譚』前集第百四十一項から [エッセー]

『菜根譚』前集第百四十一項から

 鋤奸杜倖、要放他一条去路。
 若使之一無所容、譬如塞鼠穴者。
 一切去路都塞尽、則一切好物倶咬破矣。

 奸(かん)を鋤(す)き、倖(こう)を杜(た)つには、他の一条の去路(きょろ)を放(はな)つを要す。
 若(も)し之れをして一(いつ)も容(い)るる所(ところ)無(な)からむるは、譬(たと)えば鼠穴(そけつ)を塞(ふさ)ぐが者の如し。
 一切(いっさい)の去路(きょろ)、都(すべ)て塞(ふさ)ぎ尽(つ)くせば、則(すなわ)ち一切の好物は倶(とも)に咬(か)み破(やぶ)られん。
 
 悪人を排除し、胡麻摺り者と絶縁するには、一本の逃げ道を用意してやることが必要だ。
 もし、逃げ道を断ち、只の一箇所も身の置き場を無くしたら、それはネズミの通り道をふさぐのと同じだ。
 全ての逃げ道を全てふさいでしまえば、本当に大事なもの全てを食いちぎられてしまう。

 つまり、悪党でもとことん追い込めば、「窮鼠、猫を噛む(塩鉄論)」ように、何をしでかすか解らないので、下衆な者の悪さの追及はそこそこにしておけ、ということ。
 言換えると、何事につけても深追いは禁物であるということだ。




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田を打つ繰り返しの二句 [エッセー]

田を打つ繰り返しの二句

 生きかはり死にかはりして打つ田かな   村上鬼城

 人類が現れてか数十万年と言っても、地球誕生以来の時間と比べれば僅かなものでしかない。ましてや人ひとりの命の時間など語るにたりない。悠久の大地につぎつぎと人は生まれ死んでゆく。それをひとりの命で捉えれば儚いが、生命のリレーという大いなる輪の中においては、永劫に引き継がれ耕されつづけるものがある。遅く、否かで農業を営む方々には、この句のような感慨はいつも胸中を行き来しているに違いない。

 気の遠くなるまで生きて耕して 永田耕一郎

 私は農業に従事したことはないので全く分からないが、田んぼを耕すのは重労働であっただろう。いまでこそ、耕耘機などがあるが、その昔は牛や馬を使って耕さねばならなかった。それは、先祖代々受け継ぐべき作業であった。働き続けなければならないかったのだ。そして、自然との闘いでもあった。それこそ、「気の遠くなるまで」の長い間を戦わねばならなかった。それに比べると、現在のサラリーマン生活などはありがたいもので、私のような無能力者でも悠々自適の隠居生活が営める。


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動詞による人生論 その8 与える [エッセー]



 山上の垂訓というのがある。新約聖書マタイの福音書第5章から第7章までであるが、イエスが山の上で弟子と群衆に向かって説いた説教の一つである。マタイの福音書7章7節には「求めよ、さらば与えられん」という言葉がある。現在の訳では、「求めなさい。そうすれば、与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」となっている。

 ラテン語の諺の一つに、”Date et dabitur vobis.”というのがある。「ダテ・エト・ダビトゥル・ウォービース」と読むが、その意味は「与えよ、さらば与えられん」である。

 私個人としては、後者のラテン語の諺に軍配を上げる。何故なら、「求める」という行為の結果が必ずしも与えられるということにはならないからだ。
 神との契約によれば、求めれば与えられるのだろうけれど、人間と人間の間では、この因果関係は必ずしもそうではないからだ。
 人間と人間の間では、むしろ「与えよ、さらば与えられん」ということになるだろう。何故なら、人間はいつでも自分が可愛いのだ。可愛くして仕方が自分に対して、何かを与えてくれる人がいるとすれば、それは喜びである。だから、自然に与えてくれた人に対しても何かを与えたいと思うだろう。所謂、恩返しである。恩返しというのは世界のどんな人でも普通に持ち合わせる心情である。
 話は変わるが、ユダヤには古くから『ゴールデン・ブック』というものがある。ゴールデン・ブックには同族(ユダヤ人)の出身で世界的に傑出した人物の名を代々登録され、その功績を永遠に顕彰する。
 普通はユダヤ人しか登録されないらしいが、なんと日本人の名前もそこに書かれているのだ。安江仙弘陸軍大佐、樋口季一郎陸軍中将、小辻節三博士、内田康哉外務大臣、手島郁郎、古崎博の6名である。

 だが、私達は犬塚惟重海軍大佐のことも忘れてはならない。犬塚大佐にもユダヤ人保護工作への感謝から、ユダヤ人の恩人としてゴールデン・ブックに記載したいという申し出があったが、犬塚大佐はこう言った。
「私は陛下の大御心を体して尽くしているのだから、しいて名前を載せたければ陛下の御名を書くように」と。

 ユダヤ人と言うと、強欲で神儲けのことしか考えてない人たちを私は思い浮かべるのだが、やはり自分達を大切に丁重に扱ってくれた人たちには、恩義を感じ、それを顕彰するのである。この地上で、恩を仇で返すのは死那人と朝鮮人くらいのものだろう。

 閑話休題

 やはり、自分のことを大切にして貰いたければ、まずは相手を大切に扱うことだ。古い諺にも「情けは人のためならず」とある。さらに、与えた恩恵に対する見返りを期待するのは卑しいことである。与えた恩恵は忘れて、与えて貰った恩恵は忘れてはならない。それが一段とあなたの人格を立派にする。
 「与えよ、さらば与えたえられん」というのはほぼ普遍的に使える原則ではあるが、地上には、恩を仇で返すという例外的ことをする民族、国家もあるということだけは覚えておいた方が身のためである。

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蜘蛛に生れ 網を張らねば ならぬかな  [エッセー]

高浜虚子

 蜘蛛に生れ 網を張らねば ならぬかな 

 私達この地球に生まれる生命体は、自分でその出自、種族などを選べるわけではない。蜘蛛  
に生まれたら、蜘蛛として一生を終わらねばならない。蜘蛛には飽きたので明日からは犬とし
て生きるなどというのは不可能である。
 そういう意味では、人としてこの世に生を受けたのは実に幸運なことである。人として生まれたからには人として生きるしかない。それは、まず勉強をすることである。人は一人では生きていけないので、人として生きていくのに、周囲の人が話している言語を習得することが必要である。母語の習得は比較的簡単にできるが、意思の伝達手段としての読み書きはそれなりに勉強しなければ身につかない。さらには、買い物に必要な計算だとか、移動する場合の地図の読み方や交通に必要な記号の読み方や使い方と言う具合に、実に膨大な量の勉強をしなければならない。まさに、国語、算数、理科、社会である。
 さて、蜘蛛として生まれたからには、蜘蛛は網を張らねばならない。餌となる昆虫を捕捉す
るための最低限の道具である。

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喜食満麺その9 [エッセー]

喜食満麺その9
 
 シリーズの最後は鍋の話にしたい。我がでは、冬の間は夕食はたいていお鍋だった。それは、今後もずっと変わらないだろう。
 鍋料理は味付けも具材も変化させ続けられるので飽きが来ないのだ。ちゃんこ鍋、水炊き風、もつ鍋、海鮮鍋、トマト鍋、キムチ鍋、水餃子鍋という風に変化させれば手軽にできる。なによりも、材料を刻むだけですむ。
 そして、最後のお楽しみは、締めである。たとえば、トマト鍋の時にはご飯を入れてチーズを足せば即席のリゾットになる。水餃子の締めは中華麺を入れる。
 私の一番のお気に入りは、和風の海鮮鍋の後のおじやだ。海鮮から出た美味で滋養に富んだダシをご飯が全部吸い取っていて、大変美味しく食べられる。
 残りのあまり長くない人生を過ごすには、この海鮮鍋のように、美味しくて滋養に富んだダシを与えてくれる人達とお付き合いしたいものだ。義理のお付き合いは最低限に絞っているし、会社のOB会などには行かない。利害関係で結びついた付き合いは、もうたくさんだから。

 定年退職後にもSNSでたくさんの方と知り合いになった。直接会って顔を見知っている人もいれば、顔さえ知らない人もいる。その中には、様々なダシを与えてくれる人もいるし、そうではない人もいる。人はそれぞれだから、そのままでよいが、私にとって大切な人はやはりダシを与えてくれる人だ。
 そのダシはちょっぴりで効く場合もあるし、後からじわりと効くこともある。やはり、人生というのは長いようで短いし、浅いようで深いものなのだと思う。 

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喜食満麺その8 [エッセー]

喜食満麺その8
 
 昨日の日記はイタリアの諺を基にして文化の違いや価値観のことについて考えた。今日は日本国内での違いについ考えてみたい。
 ごく大雑把な話をすると、東と西の食文化の違いは、糸魚川―静岡構造線(フォッサマグナの西辺)あたりに顕れる。
 天麩羅(九州では薩摩揚げのことも天麩羅というが、ここでは薩摩揚げは含まない本来の天麩羅のみ)にソースをかけ る文化というのがある。この食べ方は、和歌山では主流はだそうだ。関東ではどういうわけか、埼玉が天麩羅補ソースで食べる割合が比較的多いそうだ。
 また、関東以北では「お汁粉」と呼ぶものを「ぜんざい」と呼ぶのは静岡以西である。
 さらに、肉と言えば関東では豚肉をまず連想するのに対して、関西では牛肉を連想するという。中華まん(肉まん)のことを「豚まん」と呼ぶのは関西以西であろう。関東では「肉まん」と呼ぶ。つまくり、関東では肉=豚という構造であり、関西以西では肉≠豚なので、わざわざ「豚」まんと呼ぶわけだ。
 このように、糸魚川―静岡構造線というのは、日本の食文化の大きな分け目になっている。日本列島の成り立ちや、縄文文化と弥生文化のせめぎ合い、あるいは織田、豊臣、徳川の三氏が愛知あたりから輩出したことなどとも関係があるのだろうか。
 いずれにしても、この小さな島国の食文化だけを見ても、様々な違いがある。
 ところで、友達には江戸っ子もいるけれど、いわゆる江戸っ子の態度というのは非寛容なので、私はなじめない。
 いわく、「我慢してでも熱い風呂に入る」、「蕎麦つゆは先の方に少しだけ付けて食べる」などなどいろいろ言い立てて、それができなけりゃ江戸っ子じゃないという態度だからだ。
 まあ、私は江戸っ子じゃないから、「おめえは江戸っ子じゃねえ」と言われても痛くもかゆくもないが。
 他者に対して寛容になれば、苛立つこともない。自分の価値観は自分のだし、他者の価値観は他者のものだと、割り切ってしまうことが、よりよい生き方ができる。


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喜食満麺その7 [エッセー]

喜食満麺その7

 中国、韓国および東南アジア諸国でもお米は非常に重要な地位を占める食料である。日本のお米は粘り気があって、それがお米を止められない魔力のひとつだ。
 欧州ではお米は野菜として食べるが、イタリアやスペインなどではリゾットやパエリアなどの形でよく食べられていることは周知の事実である。
 つまり、洋の東西を問わず美味しいものは美味しいのだし、自分たちが美味しいと思う素材を、自分たちの調理法に併せて調理するという、ごく単純な事実だけがある。
 片方はオリーブ・オイルやチーズと併せて煮たり、焼いたりする。もう片方は、何も加えずに蒸す。場合によっては様々な具材と一緒に煮る。そうすることで、自分たちの舌になじんだ食べ物ができる。
 さて、イタリアにはこんな諺がある。

「米は水の中に生まれ、ワインの中に死ぬ」
II riso nasce nell’acqua e muore nel vino.

 なんとも素晴らしい表現ではないか。リゾットなどを思えば、たしかにこの諺のとおりだ。タイでは、竹筒にお米を入れて、こにココナツミルクを入れて焼くという調理法もある。
 そして、日本の米は水の中に生まれ、水の中に死ぬのである。主食として食べる場合もそうだし、お茶漬けにしてもそうだ。私の大好きなおじやにしてもそうだ。淡泊であっさりとしたものを好む日本人に相応しい。

 それぞれの民族の長い伝統が、こういう違いを生み出すわけで、その違いを大きなもとと捉えるのか、あるいは小さなものと捉えるのかによって、世界観は変わる。
 グローバル化が避けられない今日、お互いの文化の違いを大きなものと捉えずに、小さな差異だと捉える考えがあれば、世界の国々や民族は、ずっと仲良く暮らせるはずだ。
 自分たちの価値観だけが唯一正しいものだという考え方に囚われていては、生きにくい時代に突入しつつある。それぞれの価値観を尊重しながら、相手の価値観を非難したり、おかしいと考えたりしないようにすれば、窮屈な生き方に制限されずに生きられる。
 今日はイタリア料理でも食べようか。 
 


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喜食満麺その6 [エッセー]

喜食満麺その6
 
 子どもの頃は食べ物の好き嫌いが激しくて、ほとんどの野菜が嫌いだった。気に入ったおかずがない時は、だけをご飯にかけて食べる時もあったぐらいの偏食児童だった。今では何でも食べる爺さんになった。特に夏野菜は大好きだ。
 レストランなど家の外で食事をする時、一緒にご飯を食べたくない人がいる。
 それは、食べ物を食べるときに、くちゃくちゃいわせる人だ。それから、やたらとげっぷをする人。さらに、汁物を食べるときに、ずるずると大きな音を立てる人。(ただし、ラーメンや蕎麦などのようにすすり込む食べ物は別)
 自宅の家の中ならともかく、大勢の人がいるところでは少しは慎んだ態度を取らなければいけない。これは、価値観の問題ではなく、周囲の人を少しでも不愉快にしないエチケットの問題だからだ。しかし、家の中では個人の価値観に従って、好きにすればよい。寛いでご飯を食べられるのは家の中だけだから。

 ここ10年ほどは朝食を食べない習慣になった。以前はきちんと食べていたが。朝はもっぱら水分を取り、排泄に努める。
 朝ご飯に付き物の味噌汁をご飯にぶっかけて、いわゆる「猫まんま」にして食べるのが大好きだった。その話をしたら、当然女房は顔をしかめた。
 女房殿は、「お行儀の悪い食べ方」として、この「猫まんま」を嫌うのだった。
 しかし、自宅で寛いで食べる時ぐらいは、自分の価値観を発揮して何が悪いかという態度で、女房の視線を無視したものだ。
「猫まんま」にもいろいろあるようで、このほかにも鰹節をのっけて醤油を垂らすというのも大好きである。
 公共の場でエチケットに反するのはよくないが、自宅で食べる時ぐらいは自分の価値観を発揮して、好きにすればよいというのが私の考えだ。連れ合いは、ものを食べるときは、行儀良くたべるべきだという考えた方である。どちらであっても、世間を揺るがすようなことではないので、全く構わない。
 

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