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酔生夢死の世の中を渡るには、それなりの覚悟と知恵がいる。そんな覚悟も知恵もなく歩んできた人生の好きなことを、好きなように書き散らしました。

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魂がないと此世(このよ)は面白い 武玉川 [エッセー]

魂がないと此世(このよ)は面白い 武玉川

 なまじ魂などと言うものがあるから、人は反省したり、後悔したりする。そんなものがなければ、毎日面白おかしく生きられるだろうと思うのは無理もない。
 しかし、自分が好き勝手にすると、当然迷惑の掛かる周囲の人も出てくるので、そういう人は怒る。また、他の人も自分の好き勝手にするので、自分が多大なる迷惑を被ることになる。そういうことが高じると、復讐の連続に繋がるので、殺し合いが始まる。そして、結局は誰も長く生きられない。  


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朝さめてこの世に老いし人ひとりにれ噛むごとく夢をはかなむ [エッセー]

朝さめてこの世に老いし人ひとりにれ噛むごとく夢をはかなむ 佐藤佐太郎

「にれ噛む」は正しくは「齝(にれか)む」だということだ。牛などの反芻類が反芻することを指す。老い先があまり長くないと感じだしたら、人は何を反芻するのだろうか。後悔や絶望は反芻したくないし、叶わなかった夢を反芻するのも賢明とは言えまい。
 一番良いのは過去のことなど反芻せずに、日向で居眠りをする年老いた猫のように何もしないでいることだろう。

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炎天や死ねば離るる影法師 西島麦南(ばくなん) [エッセー]



 炎天や死ねば離るる影法師 西島麦南(ばくなん)

 幼い頃に影踏みで遊んだという記憶はあるが、具体的にどんな遊びだったかは、思い出せない。だが、太陽が出ていれば自分の影は何処までも付きまとう。離れることはない。
 自分に一生涯付き合ってくれはするが、影はものを言わず、影が何を欲しがっているのかは、分からない。私が美味しい寿司を食べたいと思っていても、影がそんなことを思うはずもない。また、影が私に立腹して襲ってくることもない。
 それでも私が死んだら、影は私から離れていく。それだけは、確かな事実である。そう思うと、何かしら影が大変愛しいものに思えてくるから不思議だ。

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明日は今日よりも良いか [エッセー]

明日は今日よりも良いか

 僕たちが育ち盛りの頃は、明日は今日よりもよくなるという漠然とした安心感があったものだ。だから、大量に物品を生産して大量に消費していけばいくほど、みんなが豊かになると思っていた。
 しかし、気が付くと地球の温暖化や資源枯渇などの問題で、このままでは大変なことになる環境だということが認識された。
 政官業の癒着により、膨大な国債残債が残されている。我々は子孫にその負担を押しつけてはならないという議論がようやく始められた。
 そして、東北大震災や数年連続する自然災害を通じて、自然災害の恐怖いかに怖いかということが分かった。

 私たちは、自儘な過去の足し算の生活が成り立たないという大量かつ明白な証拠と、過去からの請求書を突きつけられている。まだこのまま足し算の生活を続けるのか、それとも引き算の生活を開始して、請求書の総額を減少させるのかが問われている。
 少なくとも足し算の生活を続ければ請求書の総額は増えるだけだと、みんなが気が付いた時点から、少しずつ明るい将来が見えるのではないか。


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無礼する 人は人にて 人ならず 人と思いて 咎めばしすな [エッセー]

無礼する 人は人にて 人ならず 人と思いて 咎めばしすな

 人に対して無礼を働く人は、人でなしと思えば良いだけで、一々無礼を咎めることはしなくても良い。確かに、日本の周辺の死那狂惨党や南北朝鮮は無礼ばかり働いているので、彼らは人間ではないので一々腹を立てないでいよう。


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下町の太陽 桜貝の歌 [エッセー]

 下町の太陽 桜貝の歌
 
 吉永小百合と好対照なのが倍賞千恵子だ。
 私はこの倍賞千恵子が大好きである。
 寅さんの妹役としての倍賞千恵子よりも、歌手として好きだ。
 なんとも澄んだ美しい声の持ち主であると感嘆する。
 明るくて、夫を陰で支えて、またよく働いて家の中を切り盛りして家族のみんなに愛を注ぐ。
 昔の母親像はそのようだったし、今も理想の母親像であり、妻の形だと思う。
 そして、昭和の東京の下町にはこんな妻や母がたくさんいたのだ。
 現在ではキャリア志向や上昇志向の強い女性が登場し、このような妻、母のような生き方はつまらないと考える女性が多いのかもしれない。
 その証拠に、私の嫌いな勝間和代みたいなのが若い女性の間で、まるで神様のように崇められている。
 男性は正規社員になるのが難しくなったし、賃金も上がらなくなったので、女性としても必死でお金を稼げる女になりたいという気持ちがあるのは分かるが、私は昭和の時代の母親、妻の形がとても好きだ。
 キャリアのためとか上昇するためとかではなく、ただ夫を愛し、子どもを愛し、家族のためだけに生きる生き方は、本当に尊いものだと思う。
 自分を捨てて他に尽くすというのは、自己中心的な生き方の対極にある生き方だからだ。
 私の母もそんな生き方をした人だった。
 だから、頭の毛が薄くなっても、腰が曲がっても私は母が好きだと言える

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過去は運にけふは枯れ野に躓けり [エッセー]

鈴木真砂女

 過去は運にけふは枯れ野に躓けり

 真砂女の人となりや来歴については余り知らないけれど、不羈奔放な人だったようだ。この人の生き方を見ていると、数奇な運命に翻弄されているようでもあり、自由闊達に何物にも囚われることなく生きたようでもある。
 私達が躓くのは運命になどではない。自分の思い込み、感情、欲望、情熱、夢、希望、考え方、思考、能力などに躓くのである。起伏のある人生には蹉跌はいくつもあるのが普通だ。蹉跌も後悔もない人生などあるはずもない。宮本武蔵が「我事に於いて後悔せず」と言ったのは、後悔しても仕方が無いから、過去は振り返らないのだという意味で言ったのだと思う。普通の人はそこまでの覚悟はないので、悔いだらけの人生になってしまう。ただ、何時までも悔いを引きずっていると前に進めないのも事実である。

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糞ころがしと生まれ 糞押すほかはなし  [エッセー]

加藤楸邨

 糞ころがしと生まれ 糞押すほかはなし 

 動物の糞は、その動物が利用できないものを排出したものだが、他の動物には利用可能な栄養を含み、また消化の過程で追加される成分もある。そのため、動物の糞には、昆虫を含む多くの小型動物が集まる。ただし一般に糞虫と言われるのは、コウチュウ目の中で、コガネムシ科とその近縁なグループに属するものである。その大部分は、哺乳類、特に草食動物の糞を食べる。
 また、スカラベは、糞から適当な大きさの塊を切り取り、丸めると足で転がして運び去ることからフンコロガシ(糞転がし)、またはタマオシコガネ(玉押し黄金)とも呼ばれる。このとき、頭を下にして、逆立ちをするような姿勢を取り、後ろ足で糞塊を押し、前足で地面を押す。古代エジプトではその姿を太陽に見立て、神聖視していたという。日本ではこの仲間は存在しない。
 生態系は、生産者、消費者、分解者と区分される。
 生産者は、光合成によって太陽エネルギーを用いて炭酸同化し、生態系のエネルギーを生産する独立栄養生物である。
 消費者と分解者は、従属栄養であり、生産者が固定したエネルギー(有機物)を消費することで生活する。
 一般に、消費者は生きた植物組織を起点とした食物網(生食食物網)に属するのに対し、分解者は枯死植物遺体を起点とする食物網(腐植食物網)に属する。あるいは、生食連鎖系に属している動物遺体を起点とする食物網に属する。
 糞転がしは、動物がこれ以上利用できないとして排泄した排泄物をさらに利用するのだから、分解者に該当するのだろう。

 糞を食べるとは汚い、などと思うのは人間の傲慢であろう。人間は、そういうものを食べないで済む。そのことをありがたく思うのが、人間として生まれたことへの感謝である。



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巻貝死す数多の夢を巻き残し [エッセー]

 三橋鷹女

 巻貝死す数多の夢を巻き残し

 人はみな成長するにつれて多くの夢、目標、希望を抱くようになり、様々な蹉跌や諦観に足を掬われて、夢、目標、希望をなくしてしまう。

 幼い頃にはヒーローになりたいという夢を抱く。僕の憧れはスーパーマンだよ、あるいは憧れのサッカー選手メッシみたいな選手になりたいというような具合に。しかし、成長するにつれ、自分の限界に気が付く。体力、運動能力、学力、知力など様々な事柄について現実の厳しい評価を目の前に突きつけられる。そうすると、エベレストほどの高望みは、自分には実現できそうにないので少しレベルを落とそうと思うようになる。思春期にはそういう悩みと異性への興味が綯い交ぜになり、重くのしかかる。
 中学、高校、大学と進んで行くにつれ、目の前の志望校突破という目標をひとつずつ果たさなければならない。
 人間には様々な天賦の才能が与えられている人もいる。文武両道とか才色兼備とか形容される人達がいるものだ。また、生まれながらの才能が乏しく、努力に努力を重ねてもどうにもならない人達がほとんどだということも事実だ。
 そうこうするうちに、家庭を作ると、家族を養うことにだけ集中するしかなくなってしまい、幼かった頃の夢や希望など全く置き去りにしなければならなくなるのが常態だろう。そしていたずらに馬齢を重ねていくことになる。
 大して長くもない人生の大部分を馬車馬のように働いて得たものが、小さなマンションの一区画であり、これから先の人生を送るには全く足りない、極僅かな蓄えだけとしたら、一体俺の人生は何だったのだろうと思うのは仕方がないことではある。
 巻き貝は最初から自分の家が一心同体として与えられている。それだけでも巻き貝は巻き貝に過ぎない。
 巻き貝は、巻き残した夢を残念だと思うだろうか。きっとそうは思わないはずだ。何故なら、かの太閤秀吉でさえ、「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」という辞世を残した。すべては夢のように儚いものなのである。

 最後の締めにはこの人にはこの句が相応しい。

 みんな夢雪割草が咲いたのね

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ぶら下げている? [エッセー]

ぶら下げている?

  これは、かなり前にテレビで流れていた「タンスにゴン」という商品の宣伝の文句である。
 私たちはぶら下げなくもよいものをいつくもぶら下げながら生きている。懐かしい故郷の想い出、青春時代の甘酸っぱい記憶、学生の頃の部活の想い出、失敗したことや成功したこと、過去の栄光、家柄の良さ、一族の歴史、学歴、プライド等々、この世の中にはそういうものはうんざりするほどある。個人でさえもそうなのだから、部族や民族の中にもあるし、国単位でのこともある。
 栄枯盛衰、生住異滅を繰り返す無常の世界にあって、そんなものは何ほどの意味もない。ぶら下げているままにするのなら、取り外した方がよほど楽に生きられる。
 しかし、ぶら下げていないと個人、部族、民族、国家の核が崩壊してしまうものもあるのだ。それは千差万別のものであるに違いない。
 私たち日本人は、天皇家を第一に取り上げる。天皇家こそが日本という国の核である。それから日本語である。和食、歌舞伎や相撲、茶道、能などの日本文化である。
 しかし、日本という国単位のさらに下位概念となると、北海道や沖縄、関東、東海などの地方になる。そこにはまた、その地方独自の文化や方言がある。それらのものが、独自の文化をまとめる鍵となる。
 関東の人から見れば、京都弁、大阪弁、神戸弁の区別は付けにくい。しかし、関西人は、すぐにお互いに分かる。九州だって同じことだ。ただ、大分地方は関西弁が混ざっているようだが。
 ぐっと、下位概念を押し下げて個人ベースになると、個人の核になるものは、自分にまつわる様々な記憶でしかなし、両親や親戚の人々が次々となくなっていけば、その人の核の記憶も薄まってしまう。ただ、本人だけが頑強に自分の核を持ち続けているに過ぎない。ちなみに、自分の属性を洗い出してみると良い。
 自分の名前は○○だ。私は○×△と△×○の間に、長男として生まれた。私は××の配偶者だ。私は、なにがしの父親だ。こういう属性を洗い出せば、自分の本当の核になるものは、いったい何なのかと戸惑う。もちろん、事実としてはそれらのすべての要素が「私」を形成していることは間違いがないのだが。
 しかも、それらの属性は自分自身で獲得したものではなく、生まれた瞬間から与えられたものだってかなりある。自分の名前は親が与えてくれたものだし、性別や誕生日だってそうである。もっと言えば、幼稚園や小学校などの学歴もそうである。幼稚園に入る前から僕は「慶応幼稚園に入りたい」などという意思を持った幼児はいない。仮にいるとしたら、両親がそういうふうに本人に教え込んだ結果に過ぎない。
 そうしてみると、私は人間だなどと偉そうに言っていても、自分で獲得した要素、属性はさほど多くないのではないかと気づく。そこまで行けば、本当に自分がぶら下げていなければならいなものが何なのかと言うことにも気づきがあるはずだ。
 つまり、「独生独死独去独来」である。人間は己一人で生きることはできない。母にお乳を与えてもらい、身の回りの世話をしてもらい、父の稼ぎで飯を食べさせてもらい、学問をさせてもらう。学問をさせてもらったら、今度は自分が働いて稼がねばならない。雇用してくれる社長がいるから働ける。働き始めたら嫁をもらって、家庭を作り、子供を育てる。古来あまたの人間が営んできたことの繰り返しである。俺は自分の力だけで生きてきたなどと思うのは、完全な間違いであり、思い上がりだ。
 人は一人では生きられないし、余分なものをぶら下げていれば、生きにくくなるのは当然のことである。だから時々は自分の属性の棚卸しをして、本当に必要なものだけをぶら下げて生きるという覚悟を改めるのは、心の棚卸しにもなる。
 いくら富があろうと、いくら有名であろうと、あの世には何も持ってはいけないし、死んだらみんなただの「ホトケ」になるのである。「ホトケ」にはいかなる属性もない。それは、いかなる属性もなかった、生まれる前の自分にかえっていくことになる。
 私が大好きな次の俳句は、親にもらった属性しかない頃の人間の姿である。それは、次の俳句を一読すれば素直に理解できる。
天爪粉しんじつ吾子は無一物 鷹羽狩行


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「夕方の三十分」 [エッセー]

黒田三郎 詩集『小さなユリと』から
   

「夕方の三十分」より


 コンロから御飯をおろす
 卵を割ってかきまぜる
 合間にウイスキーをひと口飲む
 折り紙で赤い鶴を折る
 ネギを切る
 一畳に足りない台所につっ立ったままで
 夕方の三十分
 僕は腕のいいコックで
 酒飲みで
 オトーチャマ
 小さなユリのご機嫌とりまでいっぺんにやらなきゃならん
 半日他人の家で暮らしたので小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う
「ホンヨンデェ オトーチャマ」「コノヒモホドイテェ オトーチャマ」
「ココハサミデキッテェ オトーチャマ」
 卵焼きをかえそうと 一心不乱のところに
 あわててユリが駈けこんでくる
「オッシッコデルノー オトーチャマ」
 だんだん僕は不機嫌になってくる
 化学調味料をひとさじ  フライパンをひとゆすり
 ウイスキーをがぶりとひと口  だんだん小さなユリも不機嫌になってくる
「ハヤクココキッテヨォ オトー」「ハヤクー」
 かんしゃくもちのおやじが怒鳴る 「自分でしなさい 自分でェ」
 かんしゃくもちの娘がやりかえす 「ヨッパライ グズ ジジイ」
 おやじが怒って娘のお尻をたたく 小さなユリが泣く 大きな声で泣く
 それから やがて しずかで美しい時間が やってくる 
 おやじは素直でやさしくなる
 小さなユリも素直にやさしくなる
 食卓に向かい合ってふたり座る 
                                        以 上


 
 さて、ユリの母親は病気のため入院中である。そのため、父親(詩人黒田三郎)は幼い娘のために、母親の役目と父親の役目を一手に引き受けねばならなくなった。幼い娘は、父親の気持ち引こうとしていろいろな要求を一度に放出する。詩人黒田三郎は、てんてこ舞いの活躍をしている家に、段々不機嫌に也、ついに感情を爆発させる。
 ただ、幼い娘に対する安定した愛情が、やがて二人の楽しい夕餉の時間を紡ぎ出す。私は、このような時間がとても良いと思う。この詩もまた私が大好きな詩のひとつであることは言うを待たない。    

 


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掃けば散り 払えばまたも ちりつもる 人の心も 庭の落ち葉も [エッセー]

掃けば散り 払えばまたも ちりつもる 人の心も 庭の落ち葉も

 私たちの心には毎日塵芥が降り積もる。あれが欲しい、これが欲しいという気持ちや、あいつがけしからんだの、俺の方が正しいだの、様々な感情が沸き立って、それが積もっていく。積もるのであれば、そういうものを掃けばいいだけの話である。私の家には庭がないが、自分の家の庭はきれいに掃除をするのに、どうして心の庭に降り積もった塵芥を掃き捨ててしまわないのか。


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しんみりと [エッセー]

しんみりと

「もし今日、トリエステに着いて、もう一度サバに会えるとしたら、そして、なにげなく選んだ道をサバとともに散歩できたなら……」1958年、すなわちサバがなくなった翌年に、評論家のジャコモ・デベネッデッティは書いている。

 須賀敦子全集第五巻 ウンベルト・サバの冒頭部分より。

 トリエステというのは、イタリアの最も東側にある港町で、スロベニアはすぐそこというくらいに近い。オーストリアのハプスブルグ家の影響を強く受けた街である。第二次大戦後はイタリアとユーゴスラビアの間で、その帰属を巡る争いがあったらしい。そこにこの須賀敦子さんも住んでいる。
 私はそこに行ったことがないが、陽光溢れる港町として描かれていることが多い。
 さて、歴史にはIfは禁物であるが、その禁物を無視して、ジャコモ・デベネッデッティのような空想を巡らすとすれば、あなたは誰を訪ね、その人と何を語りたいだろうか。
 ある人は坂本龍馬を長崎に訪ね、幕末の情勢について語りあいたと思うだろう。ある人は、歴代天皇の即位前のお姿を遠くから一目だけでもみたいと思うだろう。
 またある人は、自分の父や母が結婚する前の、つまり独身時代の父や母に、家族像ら描いているのかをこっそり聞き出したいと思うだろう。
 そういう空想は、精神衛生的にはとても楽しいし、有用である。

 引用ここから
 ぼくは散歩しながらあれこれと考える。
 ひょっとしたら 自分の恋する女が こんなところで
 ぼくを 僕だけを愛して 昔ながらの
 生きる喜びを もう一度花さかせてくれるのではないかと。
 そして 子供にはもっとばらいろの運明を。
 引用ここまで


 詩集『トリエステと一人の女』より「三つの道」から

 私は疾うに還暦を過ぎた。今の妻と連れ添ってから30数年になる。ウンベルト・サバが書いたような、素敵な恋をしたのはもうずいぶんと昔の話だ。

 私の心の中に今でも生きている美少女「洋子」さんは、私の中では永遠の美少女であるが、あの頃の純情だった私は今はすでにない。
 すれっからしになって、尾羽打ち枯らしてしまった私には、もうあの頃の純粋な気持ちは戻ってこない。また、それを哀しむ気持もまた全く起きない。
 畢竟、人間は生きていく間に様々な穢れを身に纏い、俗臭を漂わせながらもがき苦しみ、やがて寂しくこの世から消え去る定めなのだから。
 さて、私は永遠の美少女「洋子」さんに会い、トリエステの町ならぬ我が故郷の田舎道を一緒に散歩したくて話すだろううか。否である。
 それとも、最も激しく恋をし、なす術もないままに破れた女に会うだろうか。否である。
 あるいは、お互いに好意を持っていたのに、青春のさなかのふとした行き違いから、さようならも言わないで去ってしまった女と会うだろうか。否である。
 それでは、出会った頃の今の妻と会うだろうか。否である。ただし、それは、愛していないからではない。
 最も激しい恋が良いとは限らないし、短くて淡い恋が不滅の記憶にならないとは限らない。思い合っていた二人が別れる羽目になったのも定めであり、現在の妻と巡り会って夫婦になったのも定めである。そのように受容するしかない。
 今の妻との淡々とした生活には、思い出には変換できない重みがあるのである。それは、私をして「まだ生きていたい」という思いに駆り立てるものであり、それがささやかな妻への感謝のきもちである。

 思い出は思い出としてだけ残しておく。それはそれでいいではないか。無料だし、だれに迷惑をかける訳でもない。
 やはり、大好きだった両親と、我が故郷の町で会い、一緒に散歩するのが一番だ。そして思い切って言おう。
「親父、お袋。俺を産んでくれて、本当にありがとう」と。


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愚痴短気悋気怒りの胸の火をなだめ沈むる堪忍の徳 [エッセー]

愚痴短気悋気怒りの胸の火をなだめ沈むる堪忍の徳

 悋気とは物惜しみということである。愚痴・短気・悋気・怒り・などの、胸の中で火のように激しく燃える感情を沈めてくれるのは、堪忍という徳である。


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忌めば忌む忌まねば忌まぬ 忌むという文字は己が心なりけり [エッセー]

忌めば忌む忌まねば忌まぬ 忌むという文字は己が心なりけり

 己という文字に心を足すと、忌という文字ができる。刻苦勉励という四字熟語があるが、なぜか私はながいこと「克己勉励」だと覚えていた。己に打ち勝つことが大事だと思い込んでいたのだ。
 それはさておき、他人に何かを忠告されたり指摘されたりすると、己の心の中で反発心が起きる。だから、忠告してくれたり、指摘してくれたりした人に感謝するのではなく、「忌む」という行為に走ってしまうのだ。忠告や指摘を素直に受け止めれば、相手は気づきという恩恵をもたらしてくれる人だが、自分の心の中で己だけが大切というバイアスがかかると、相手は忌むべき人となる。
 心という魔物は、いつでもあなたの隙をつこうとして待ち構えているのだ。


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三度炊く飯さえこはし柔らかし 思うままにはならぬ世の中 [エッセー]

三度炊く飯さえこはし柔らかし 思うままにはならぬ世の中

 毎日三度は炊くご飯でさえも柔らかかったり、固かったりする。そのように思いのとおりにはならないものだ。ましてや、この世の中で生きていくのに、思いのままに生きていけるなどということがあるはずがない。そう思うと、ご飯をたくという単純な行為以上に複雑で難しいことが絡み合っている世の中で生きていくのは、不自由というか不便というか、それが当然の状態だと思わねばならない。そう思えば、障碍がいくつもあっても、苦痛にはならないだろう。

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年々にわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり 岡本かの子 [エッセー]

岡本かの子

 年々にわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり 岡本かの子

 年々に何だか正体の知れない哀しみが深まるという前半部分については、私個人の思いとも重なる。 
 しかし、享年51のかの子は命がいよいよ華やぐと言うのに比べ、私にはそんな感想はない。すっかり枯れてしまったというわけではない。だが、私には生は華やぎもせねば輝きもしない。どんよりと広がる雨雲のように、哀しみを湛えた表情で浮かんでいるだけだ。
 ただ、辛いとか、嫌だとか、避けたいというような感情はない。いかなる感情も伴わずに、ただそれだけという感じである。この、ただそれだけ、という感じか、若い頃にはよく分からなかったが、最近ではすべての物事になんとなくそういうものだと受け止められるようになった気がする。おそらくは、これが老いというものの正体なのではないかと、最近は思っている。

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多様な法則 [エッセー]

                 多様な法則

 世の中には多種多様な法則がある。法則とていっても、いかなる場合にも必ず当て嵌まる万有引力や熱伝導などの物理的法則や2H2 + O2 → 2H2Oというような化学反応の法則などがある。
 また「熱力学第二法則」あるいは「エントロピー増大の法則」というものがある。「熱力学第二法則」というと理解不能だが、「エントロピー増大の法則」というのは、秩序ある状態(エントロピーが小さい)から無秩序(エントロピーが大きい)という一定方向にしか働かない、つまり不可逆であるという説明だとなんとなく理解できたつもりになる。
 自然法則というものは山ほどあるが、中学の数学でさえ解けないようなお粗末な頭脳しかない私には、理系の話は無縁のものである。もっとも、積分というのは分かったつもりになることであり、微分とは微かに分かることだという例え話は理解できる。
 しかし、世の中にある法則は自然法則だけではない。「経験則」という法則もあるのだ。
人間が経験したことや社会で起きている現象を分析すると、ほぼそのような傾向が見られるというのが「経験則」である。
 その代表的なものが「パレートの法則」と呼ばれるものだ。これは別名「80対20の法則」とも呼ばれる。
「パレートの法則」と「80対20の法則」とは、厳密には別物だということらしい。しかし、世間では同一視されているし、そのような解釈でも特に問題はないだろう。
 パレートの法則とは、「市場経済の出来事の80%の結果は、わずか20%の要因が影響している」というものである。
 会社の仕事で、みんなも使った経験はあるだろう。たとえば、売り上げの分析に応用するとこうなる。売上の8割は全顧客の2割が生み出している。よって売上を伸ばすには顧客全員を対象としたサービスを行うよりも、2割の顧客に的を絞ったサービスを行う方が効率的である。ABC分析といって、在庫管理で重点管理をする部品は、金額で上位20%に絞り込めばよい。その他は定量発注にすれば在庫管理の無駄を省ける。また、品質管理ではパレート図というものを使う。
 また、一般に 「悪貨は良貨を駆逐する」として知られている、「グレシャムの法則」というのも有名だ。貨幣の額面価値と実質価値に乖離が生じた場合、より実質価値の高い貨幣が流通過程から駆逐され、より実質価値の低い貨幣が流通するという法則である。
 なお、言うまでもないことだが、自然法則には例外はない。しかし、経験則には例外は付き物である。
 さて、そのような経験則の中には様々な面白いものがあるが、ここでは二、三の例を取り上げたい。
 まずは、「ザイアンツの法則」と呼ばれるものを取り上げよう。米国の進学者ロバトー・ザイアンツは、25年間一緒に生活した夫婦の顔の表情が、お互いに似るかどうかという研究をした。55組の夫婦、つまり110人に、結婚当初と25年後の写真を持ってきてもらった。それを大学生に比較してもらったところ、お互いの表情が似通ってきたと答えたのだ。ザイアンツは、最初は食生活や環境などを重要な要素と考えたが、それは否定された。最終的には「相手の考えや主張にお互いが共感を覚える」と考えた。つまり、「感情移入」を原因と考えたのだ。
 長年連れ添っていると、相手の考えや感情が分かってくる。したがって、気持ちとか感情は、顔の表情を通じて伝達されるというのだ。
 もうひとつゴットマンの法則というのがある。これは、結婚生活を成功させる7つの法則である。
1 相手の考え方や感情をよく理解すること。
 相手の夢や希望、興味を無視しては、どこかで躓く。
2 相手に対する愛情と賛美の精神を涵養すること。
 考え方の違いや性格の違いを理解し、自分の主張ばかりを押しつることをしない。
3 相手から逃避せずに向き合うこと。
 理解と歩み寄りは人間関係の基本である。
4 相手からの影響を受け入れるようにする。
 治部のアイデンティティーを保ちながら、相手のことも受け入れる。
5 夫婦間で解決できることは必ず解決すること。
 抱きようも必要だ。
6 お互いに行き詰まっているなら、それられを話し合いで解決すること。
7 二人で分かち合える人生上の意義を作りだすこと。

 多様な法則が世の中にはあるものだ。それらの法則を知っていれば、多少は苦労を減らすことが出来るかもしれないが、何事にも例外は付き物である。ただ、ウサギとカメの話を教訓にしているだけでは駄目である。努力は絶対に必要なのだが、努力もせずに生きている馬鹿は数少ない。殆ど全ての人はそれなりに努力しているのである。だから、「頑張れ」という応援はしなくてもいい。それよりも、いろいろな法則をそっと差し出すのは良い手段であろう。



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 [エッセー]



 春ごとに花のさかりはありなめどあひ見む事はいのちなりけり よみ人しらず

 春になるごとに美しい花の盛りはきっとあるだろうけど、その花の盛りを見るということは私の命があってのことだ。

 花との出会いであっても、全ては自分の命があるという前提による。命が尽きてしまえば、花の盛りも終わりもみることは叶わない。ましてや、人と人との出会いであれば、出会う場所、時、タイミングなど非常に多くの限定された条件の中での人だ。それでも、あの人は好きだが、この人は嫌いだという感情を消し去ることは不可能である。男女の別を問わず、人の言動や感情の動きを見ていると、どうしてもあの人とは気が合うが、この人とは気が合わないということになる。
 せっかちな人間が、静かで落ち着いている人を見れば、ぐずな奴だと思う。反対に、落ち着いている人がせっかちな人を見れば、どうしてあの人はあんなにせわしなくしているのだろうと思う。でも、正反対の性格だからこそ、長く続く関係というものもある。
 いずれにしても、己の命が尽きるときには、新しい出会いなどない。だから、今自分が大切だと思う人や記憶、物を精一杯大切にして生きることが満足な人生のひとつの方法である。



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セイタカアワダチソウとススキ  [エッセー]

セイタカアワダチソウとススキ 

1 「ねずさんのひとりごと」 から

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2405.html#..


 この日記を読んで、再び深い感動を覚えた。詳細はブログに書いてある通りだが、要約すると次のようなことだ。

「セイタカアワダチソウ」というのは、繁殖力が強く、しかも自己中心的な植物で、周囲のことにはなりふり構わず自分たちの繁殖のみしか考えないそうだ。
 それで、この植物が繁殖した周辺の植物は全滅し、モグラやミミズまで逃げ出し、そこでは「セイタカアワダチソウ」だけが生き延びることになる。
 しかし、意外にも日本古来の「ススキ」が生き延び、いつの間にか逆転して「セイタカアワダチソウ」が、日本の土壌に合うように変貌したというのです。
 植物の世界でも、こういうことがあるのですね。つまり、自己中心的な種は最後には自滅するしかない。そして、自滅を救ったのが、「ススキ」であり、「ススキ」は「セイタカアワダチソウ」の毒をススキが自分の中に取り込み、その毒を中和することで、再び周辺の植物がよみがえったということです。そればかりではなく、「セイタカアワダチソウ」自身が、日本の風土に合うように変貌していたのでした。
 何も役に立ちそうもない「ススキ」がこんなにも素晴らしい植物だったとは、驚きを通り越して感動しました。そして、「セイタカアワダチソウ」のように自己中心的な植物さえも、ちゃんと変貌させてくれる日本の風土のすばらしさにも感動しました。
 最近、つくづく日本は神の国だと素直に思えるようになりました。自然災害は多いけれど、日本人は自然を克服しようとは考えてこなかった。自然に寄り添って生きてきたし、今後もそれは変わらないでしょう。
 八百万の神様に敬意を払い、天皇家を愛し、自然に寄り添って生きる。それが日本人の魂です。


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太田道灌 [エッセー]

太田道灌

 かかる時 さこそ命の をしからめ かねてなき身と 思ひしらずば 
 この歌は特に解説の必要もあるまい。
 
 昨日まで まくめうしわを 入れ置きし へむなし袋 いま破りてむ
「昨日まで分別などという、迷い心を内に蔵していたこの袋も、もはや無用無益である。遂に今、破れてしまったわい」問いいう意味。
 
 太田道灌の辞世として有名な二首である。
「まくめうしわ」とは「まくもうぞう(莫妄想)」のことで、妄想するなということ。
「へむなし袋」は役に立たぬ、何のとりえもない肉体の味意。

 私たちは、日頃から様々な分別や判断に頼って自分の進路を決めている。そして、それが良い結果を生むのか、あるいは良くない結果になるかは誰にも分からない。すぐに結果が見える場合もあれば、数年あるいは数十年たった後に、あのときのあれはこういう意味だったのかと気付くこともあるからだ。
 
 いずれにしても、この肉体が破れては分別も知識も経験もすべて無に帰すのだ。無より出でて無に帰る。ただ、それだけのことである。それは理屈では誰もが理解している。

 しかし、頭脳明晰、文武両道に長けたこの人にしてこの感慨だ。我々凡人がどれほど努力してみても、このような執着からは簡単に逃れられそうにもない。


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浦島太郎伝説 [エッセー]

浦島太郎伝説

 浦島太郎は、日本人なら小さいときから何度も繰り返して聞いたり、読んだりしたことだろう。
 浦島太郎は、ある日子供達に苛められている亀を助けた。そして、助け高めに出会い、竜宮城に案内された。竜宮城には乙姫様という小そう美しいお姫様がいた。そこで、素晴らしいご馳走を頂き、魚たちの舞を見たり、音楽を聴いたりして過ごしていた。別れの日が来他時、乙姫様から「玉手箱」という小さな箱を貰う。
 乙姫様が言うには、玉手箱の中には浦島太郎が竜宮で過ごした「時」が入っていると言う。玉手箱を開けずに持っている限り、浦島太郎は年を取らずに、今の若い姿のままでいられると言うのだ。玉手箱を開けると、「時」が戻ってしまうので、絶対に開けてはならないと言われた。
 浦島太郎は、乙姫様に絶対に玉手箱を空けないことを約束して、生まれ故郷に帰って行った。

 生まれ故郷に帰ると、今まで見ていた景色とは全く違うし、友達も知人も親戚も見当たらない。
 途方に暮れた浦島太郎は、乙姫様の言葉を思い出した。この玉手箱を開けると、「時」が戻ってしまうと。浦島太郎は、「もしかしてこれを開けると、自分が暮らしていた時に戻るのでは」と思い、開けてはいけないと言われていた玉手箱を開けてしまった。すると中から、まっ白い煙が出てきた。玉手箱の煙が薄れて、煙の中から現れたのは髪の毛も髭も真っ白の老爺になった浦島太郎だった。

 この話の教訓は、「約束を守ることの大切さ」と「約束を裏切らないことの大切さ」である。浦島太郎が約束を守って玉手箱を開けなければ、裏切りへの応酬として煙を被ることはなかった。だから、一気に年を取ってしまったのだ。

 約束を守り裏切らないことの大切さは、人間と人間の間だけではない。人間とペットの間でも大切だし、国家間でも大切である。そのために、守るべき国際規約がいろいろとある。結局は、約束を守ることが、自分を護り、国を護ることになる。
 
 


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地獄 [エッセー]

地獄

 蟻地獄みな生きてゐる伽藍かな 阿波野(あわの)青畝(せいほ)


 蟻地獄 萩原朔太郎

 ありぢごくは蟻をとらへんとて
 おとし穴の底にひそみかくれぬ
 ありぢごくの貪婪の瞳に
 かげろふはちらりちらりと燃えてあさましや。
 ほろほろと砂のくづれ落つるひびきに
 ありぢごくはおどろきて隱れ家をはしりいづれば
 なにかしらねどうす紅く長きものが走りて居たりき。
 ありぢごくの黒い手脚に
 かんかんと日の照りつける夏の日のまつぴるま
 あるかなきかの蟲けらの落す涙は
 草の葉のうへに光りて消えゆけり。
 あとかたもなく消えゆけり。
                    以 上

 
 生き物はみな生き延びるために餌を獲る。あるいは、強い相手に捕食される。罠を仕掛けてじっと獲物が掛かるのを待つのもいるし、餌を追いかけ回して捕食する動物もいる。
 朔太郎の「蟻地獄」と青畝の句では、しかし、印象が大きく違う。朔太郎の作には孤独や忍耐、悲哀が感じられ、青畝の句は妙に明るい。



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アイヌ民族解放家 [エッセー]

遠星北斗


 死ね死ねと云はるるまで生きる人あるに 生きよと云はるる俺は悲しい 

 遠星北斗という人については、まるで知識がない。この辞世の考察の元になっている『辞世選任一首』(荻生待也編著)によれば、遠星という人はアイヌ民族解放家にして歌人であるということだ。
 
 仮にこの歌を生の最期の段階で詠んだ辞世だとすると、生の最期の段階にまで「生きよ」と云われるのは嬉しいことなのか、それとも悲しいことなのかという疑問が頭を過ぎったので、この歌を取り上げてみた。
 アイヌ民族解放家という特殊な立場故なのか、それとも人望の故に「生きよ」と励まされたのか。病気か何かで本人は「もう十分に生きた」と思っているのに、ただ「生きよ」と励まされたことに嫌気がさしたのか。

 死んで行くにしろ、生きて行くにしても、人の生は苦しみと哀しみに満ちている。だからこそ、今ここでの一時を笑って明るく過ごす必要があるのではないか。哀しみを抱えているのに哀しい顔をしたところで、どうにもならないのだ。それにしても、この生きることの哀しみとの根源は何なのであろう。私には永遠に溶けない謎である。


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心こそ心迷わす心なれ [エッセー]

心こそ心迷わす心なれ 心に心心許すな 北条時頼

 この歌は沢庵和尚が徳川幕府の兵法指南役「柳生但馬守宗矩」に認めた『不動智神妙録』にある、剣禅一如を説いた言葉としてよく知られるが、元来は北条時頼が詠んだものだ。
 私達の心は、とてもではないが、静かにしておくことが出来ない。心というものは本当におしゃべりである。その証拠に、目を閉じて何も考えないようにして座っていると、突然いろいろな事柄や言葉が湧き出てくる。
 たとえば、「今日の晩ご飯は何だろう」とか、「家の息子は今頃何をしているのかな」とか、「あの××の野郎は、本当にいけ好かない野郎だ」とか、次から次へと湧き出てくる。
 
 一番心を許していけないのは、私達自身の「心」なのだ。


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 [エッセー]

 殻

 厚き殻(から)ひしめき作り雨のなか肉柔らかき人間が棲(す)む 高安国世

 ここで言う「殻」とは何なのだろう。心理的な殻であるのか、それとも家屋や集団の「殻」のことなのか。それがどんな「殻」であっても、それは小さくまとまろうとする卑小な人間を嘲笑おうとする作者の批判的精神に溢れている。
 私は、若い時分に比べてかなり寛容になったが、加齢とともに自分の殻を固く閉ざしてしまう老人が多いのも事実である。自分が卑小になっていないかと絶えず問いながら、自戒を持って生きることが必要だ。

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老い [エッセー]

老い

 老鶯(ろうおう)や泪(なみだ)たまれば啼(な)きにけり 三橋鷹女

 老鶯(ろうおう)というのは、年老いた鶯のことではなくて、夏になっても鳴いている鶯のことを言うらしい。夏もまだ啼いている、声の張りをなくした鶯が、泪を溜めて一声啼いた。この女流俳人も、自らのこれからさほど長くもない老い先に感じ入るところがあったのだろうか。

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口紅の味 [エッセー]

口紅の味

 口中にのこるちぎりの神酒(みき)の味汝(な)が口紅のまじりのしるべし  御供(みとも)平佶(へいきち)

 今日から自分の妻になる乙女が側に居る。三三九度の杯を交わして、御神酒を頂く。その御神酒はお前の口紅の味が混じっているのだと、荘厳な儀式の最中になまめかしい想像を働かせた。きっと、この花嫁は可憐な感じだったのだろう。そんな初々しい花嫁さんも、数十年経てば口うるさい老婆になる。それが人生というものだ。結婚は人生の墓場でもあるが、一緒に歩いて行かないと分からない相手の美質もあるし、感謝すべき小さな日々の積み重ねには発見すべき事も多い。

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あら楽し思いは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし [エッセー]

大石内蔵助

あら楽し思いは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし

 主君亡き後の藩内をまとめるには様々な障害があったことだろう。主君が亡くなった直後にはだれしも頭に血が上っているので、籠城を勇ましく主張するものだろう。しかし、時間の経過と共に命が惜しくなったり、よんどころない事情で仇討ちを諦めて別の生き方をした方が良いと思う人が出てきたりするのは当然だ。
 去る人には去って貰い、残った人には時間をかけて、本当に仇討ちを志す人だけを残しておくべくふるいにかける。その間には短期で先を急ぎたい人や、敵相手の吉良の事情度を調査し、万全の備えを取らねばならない。そのような数々の困難を乗り越え、漸く念願を同士とともに果たしたのである。それが嬉しくないはずがない。
 だから、彼の辞世には一点の曇りもなく、真に晴れ晴れとした素晴らしい境地に達している。
 私が最も尊敬する日本人のひとりである。

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如露亦如電応作如是観 [エッセー]

如露亦如電応作如是観

 うつ人もうたるる人ももろ共に如露亦如電応作如是観(にょろやくにょうさおうさにょぜかん) 
 大内義隆

 言うまでもなく、この人は戦国時代の武将であったが、京都あるいは朝廷に憧れて独自の文化を築き上げた。結局は、部下の陶隆房によって攻め滅ぼされる。
 
 如露亦如電応作如是観という言葉は金剛経というお経にあるらしいが、門外漢の私には詳細は分からない。この言葉の意味するところは、人生は露の如く、また雷の如く儚いものだという意味である。
 
 その昔は人生五十年といった。平均寿命が伸びた現在でも、たかだか八十年前後の命である。どんなに長く生きたとしても、せいぜい百二十年程度の人生である。心臓の鼓動が20億回鬱程度、あるいは成人になるまでの5倍の期間と言われていいる。ヒトは成人になるまでは25年を要するらしい。

 いずれにしろ、地球ができてからの長さに比べれば、まことに一瞬の長さでしかない。しかも、ヒトは進化の過程でどうしても癌が発生してしまうような体になった。最近では、癌は老化の一種だとも言われる。考えれば、自分の体の中で発生することであり、決して最近やウィルスのような外部からもたらされたものではないので、納得のいく話ではある。
 
 そんな偉大な地球に対して我々人間は非礼を働いていないか。自然が長年かけて造成した森林をむやみやたらに伐採し、先祖が長い時間をかけて作り上げてきた水田を潰したり、耕作放棄したりして、その結果保水力が衰退した。それは、大洪水となって、結局人間に跳ね返ってくるのだ。
 
 日本の場合は、お金になるということで、雑木林を杉に変えてしまった。だから、森林の保水力がなくなり、すぐに洪水が起きる。これなど、自然に手を加えすぎて、人間が自然からのしっぺ返しを食らうわかりやすい見本であろう。

 また、温暖化が進行するにつれ、北極の氷塊が溶ける。すると、海中の塩分濃度に変化が起きる。塩分濃度が変化すると、海中の深層部ではさまざまな編が呼び起こされて、。やがては寒冷化につながると言われている。寒冷化に至るまでには数千年という長い時間が必要だが、地球は、そのような複雑かつ精巧窮まりない動きをしているのである。

 儚い露のごとき人生だからこそ、自然の脅威を忘れずに自然に対してまた人に対して謙虚な姿勢で生きていきたいものだ。



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